手紙を渡し忘れていたのに気づいたのは、翌日の明け方だった。

「弱ったな。急ぎでないといいが」

 『親展』と書かれている以上、開けるわけにもいかない。さりとて、この時間に先生が起きているとも思えず、居間の卓に手紙を置いて、庭に出た。薄紫の空に月が薄く溶けている。肺を膨らませる円やかな空気は厳かな気持ちにさせてくれる。閑静な朝を壊さないように、早々に目当てに向かう。

「藤袴……」

 野草の本を見ながら庭を回る。東の奥に、淡い赤の蕾と白い糸が咲いていた。集まって花と成した姿は愛らしい。白い糸を伝うようにふっくらと露が降りている。懐から小瓶を出して、掬うように当てるとほろほろと水滴となって集まっていく。腹三分目まで溜ったあたりで、くると瓶を回した。水音がする。ただそれだけだ。特段、匂いも色もない。けれど先生は、定期的に僕に露を集めさせる。大した量にならないそれを数日をかけて、満杯にしなくてはならない。中々に骨の折れる作業だ。

「一体何に使うのだろうなあ」

 見える世界が違うのだ。有名な詩人先生のことを理解しようとするなんて全くおこがましい。小瓶を仕舞い、井戸の水を撒いた。花木は、まるで起こされたかのように水を弾いて咲く準備を始めていく。

「おはよう。駄目ではないか、隠していては」

 喉がひゅっと引っ込んだ。振り返れば、先生が縁側に座っていた。その手には、手紙があった。

「すみません。昨日、お渡しするのを失念しておりました」

「ああ。今回はそれに免じてあげようか」

 先生は、僕の手元を指差した。慌てて小瓶を渡す。空に掲げられたそれを見透かすように、先生の黒い瞳が絞られた。

「足りないでしょうから、明日も集めます」

「充分だ。今回は短いから」

「短い?」

 口は薄く開かれるだけで、音を発してはくれない。先生は、小瓶を袖に仕舞うと空を仰いだ。

「青いね」

「どちらかというと薄紫では?」

 起きた頃よりは、橙の増えた空だ。花々の待つ陽がこれから昇ってくる。

「では、それに近い色の花を一輪」

 細く白い人差指と中指を二度、開いては閉じを繰り返した。乱雑な花々の中から、色素の薄いものを探す。しゃがみこんで花弁の背景を空と合わせて見るも、一番近い色というのは中々に難しい。

「こちらでよろしいですか?」

「構わないよ」

 ろくに見る訳でもなく、彼は頷いた。「庭師に怒られないといいが」なんて思いながら、適当に鋏で切る。先生は両手で受け取ると、居間に入っていった。太陽がゆったりと頭を覗かせている。

「朝飯、作らないと」

 あの主人がまた寝ないとは限らないが、支度はしなくてはいけない。近くの家から流れてくる汁物の匂いに、腹の音がした。


   *


「立花君。書斎へ」

 畳の水拭きをしていた時だった。先生の細長い声がして、慌てて書斎に向かう。執筆時は立ち入らないように言われているが、何か入用だろうか。書斎の襖は開けられていた。

「失礼します」

「ああ、こちらへ」

 先生は文机に向かっていた。部屋は変わらず汚い。本人曰く、「何が何処にあるのかは分かっているから構わない。むしろ触らないでほしい」とのことなので掃除をすることは許されていない。丸窓からは日が差し込んでいて幾分か暑そうであった。

「いかがいたしましたか?」

「墨を磨ってほしい」

「はあ。墨ですか」

「詩が整えられたから、近藤に渡せるように清書をしようとね」

 近藤さんは、雑誌の編集者である。決して短くない付き合いらしく、僕も何度か話をしたことがある。そういえば、そろそろ彼が来る時期であった。

「墨を擦れと言われましても、特別なことは出来ませんが……」

 彼は口角を上げて頷いた。「早くやれ」と言外に示しているのだ。一介の手伝いに門下生の真似事をさせて何が楽しいのか分からないが、僕は言われた通り先生の隣に座った。

「どのくらいでしょう」

「濃墨にしよう。それがいい」

「好みになりましたら、止めてください」

 文机には原稿紙がばらばらと置いてある。大きくて仮名の多い子どものような様相だった。右端にある硯は随分と立派である。墨を手に取ってから、水差しがないことに気づいた。

「水を取ってきます」

「いや。これを使いなさい」

 それは、今朝の小瓶であった。

「露を差すのですか?」

「香りがするから。言葉だけでなく、紙からもすると現実と頭の中の言葉が入り混じって浮遊する感覚になる」

「浮遊……。よく分かりませんが、香り付けをするのでしたら、花弁を刻みましょうか」

「構わないから早く」

 促されるまま、硯の陸に露を降らす。墨を濡らして、透明なそれを染めていく。部屋には、さりさりという音だけが響いている。露が粘りをもって、墨を留めようとしている。小瓶の蓋を取って、墨をほどくように露を足した。陸から海へ流れていく黒を見ながら、丁寧に擦っていく。黒が強く主張をした頃、手の甲を制された。

「充分」

 そう言うと、先生は墨を懐紙で拭った。そして、墨汁の上に手を被せる。手は香りを連れて、僕の前にやってきた。

「いかがかな?」

「墨です」

「そうかい。甘さの中にある青みがかったしおらしさが感じられないかい?」

 先生は、目を細めた。墨に混ざる藤袴の香りを愉しんでいるらしいが、僕には分からない。

「執筆するから下がっていい。助かった」

「いえ」

 不明瞭な心持ちのまま、部屋を出る。薄い呼吸音が聞こえて、彼の意識はこちらになくなった。

 一刻ほどして、近藤さんが来た。帽子を扇子代わりにしながら、慣れたように客間に入っていく。カステイラを出すと、目を輝かせていた。

「すまないね、立花さん。しばらく失礼するよ」

「先生は『執筆をする』と仰って籠りましたので、じきに出て来られるかと」

「俺の来る前に執筆を? 墨はどうしたのだろうか」

「墨ですか? 墨は僕が擦りました」

 常ならば、近藤さんは入稿前には必ず書斎に招かれていた。そしてしばらくすると出てきて、近所を散歩して戻ってくる。ちょうどそのくらいに先生も自室から出てくる。てっきり打合せでもしているのかと思っていたが、どうやら墨を擦らされていたらしい。

「そうかい。そうかい。あの気難しい先生がねえ」

 彼の彫の深い顔から目が零れてしまいそうで怖くなる。

「いけませんでしたか? 僕は、学がないので墨を擦るのに決まりでもあるのでしょうか」

「いいや、構わない。あの人のお眼鏡に合えばいいだけだ。それに、これで俺の仕事が省けるってもんだ!」

「今までは、近藤さんが墨を用意されていたのですか」

「水はこれを使えと言われて、あの人が望む濃さに擦るだけだがね。毎回、違う小瓶を渡されるから、何かあるんだろうよ」

 小瓶は、花ごとに露を分けているのだろう。今朝は藤袴だった。五日前は桔梗だった。七日前は撫子だった。ひと月前は秋桜だった。その前は、名前も知らない草だった。

「詩人なんて酔狂な……失敬。選ばれた人には、見える世界が凡人とは違うんだろうよ」

 僕が武芸より家の事に興味があったり、旦那様が家の事より軍事に向いていたりするように、先生には詩人としての才があって、僕らとは違う世界に生きている。そう感じることは多いが、凡人には理解できないことばかりだ。

「先生はよく香りの話をされます。僕には感じ取れない香りとか」

「あの人、鼻はいいからな。弱視の分を補っているのだろうよ。加えて色盲ときた。苦労も多かったろうな。まあ、俺もよくは知らないが……待て、その顔。お前さん、知らなかったのか?」

「……はい」

 先生は、よく色を尋ねる。皿の色、道の色、衣の色、家の色、水の色、露の色、空の色、花の色。

 僕はからかわれているのか、ただ詩人特有の見えている世界が違うのだと思っていた。けれど、あれは本当に分からなかったのか。時折、小さな字を読めないと言う。音読してほしいと言われて「前の主人と変わらない歳なのに老眼か」と思ったことが多かった。「眼鏡をしては?」と提案したこともあった。緩く微笑むあれは、拒絶ではなく諦念だったのか。

「僕、知りませんでした。気づけなかった」

「気にするな。あのな、あれは隠すのが上手い人間だ。俺も初めは知らずに言っちまって、すまねえと謝ったこともあるし、それに」

 自身の浅はかさに腹の底が擦り潰されるようであった。俯いた時、すこんと痛快な音が隣からした。

「酷いじゃあないか、先生様よお!」

 丸めた新聞紙を持った先生は、抗議する近藤さんをもう一発叩いた。

「口うるさい老害はさっさとお引き取り願おう」

「はいはい。すまなかったな。立花さんも失礼した」

「いえ、僕は」

 近藤さんは、原稿を受け取ると申し訳なさそうに会釈をして行った。玄関で見送り、浮かないまま客間に戻る。

 先生は、椅子に腰かけていた。手には昨日とは違う空の小瓶があった。夕日が差して、光が三角錐に集まっている。小瓶から視線を外すと柔和に振り向いた。

「空は、橙かな」

 酷く疲れた顔に見えた。それが、執筆による一時的な疲労ではないことは僕にでも察することができた。床に膝をつき、先生に目を合わせる。先生の呼吸が聞こえる。今、彼は何が見えているのだろうか。

「申し訳ありません。充分な手伝いが出来ておりませんでした」

「構わない。伝えるつもりもなかったのだから。お前はすぐにいなくなると思っていたしね」

 骨ばった手が頭に乗せられた。手の重さが心地よくて、本心で彼が怒っていないことが伝わってくる。

「そんな顔をするんじゃあない。君は知らなかった。知らないものを知っている振りは出来ない。至極当然のことだ」

「ですが、この三月を側で仕えておりました」

 喉を圧迫されたようで、潰れた音しか出ない。けれど先生は気にしていないらしく、自身の目じりを指でなぞった。

「気を病むな。これのおかげで僕は詩人になれたのだから」

 先生は、袖から紙を出した。渡し忘れていた先生宛の手紙だった。促されるままにそれを開くと、主人とは思えない仮名の多い大きな字があった。

「少し見づらいだろうが、読むといい。君がここに来た理由が分かるから」

「ですが」

 他人宛ての手紙を読むことへの抵抗はあったが、自身が突然この家に遣わされた理由は知りたかった。

「彼の贖罪の意味を知りたいだろう」

 前の主人が言ったその言葉は違和感として残っていた。意を決して、折られた紙を開く。それは長い後悔と懺悔の文章であった。読み終えた時、僕は吐き気に襲われていた。先生の手がそっと添えられる。

「少し昔話をしよう。僕の目と見える世界を愛した人々の話だ」

 日が低く差し込んでくる。床に置かれた小瓶が、湿った風で転がった。もうすぐ夕立が来る。

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