墨の香り、菊の露
涼風 弦音
壱
落ち葉は、色とりどりに道を飾っている。近くで焚火でもしているのか、白い煙が細く上がっている。玄関先に溜まった葉は、箒で掃く度に細かく分かれていく。ようやく集め終わった頃、門が音を立てた。
「おはよう、立花君」
「もう昼餉の時刻ですよ。先生」
「止してくれ。僕は、時間を咎められるのと先生と呼ばれることが殊、嫌だ」
「先日は、朝餉に起こさなかったと拗ねていらっしゃいました」
「言い掛かりは止しておくれ」
「言い掛かりではありませんよ。夜泣きをする赤子のようでした」
男の顔を見ることもせず、箒で葉を集めていく。気づけば焚火の出来る量になっていた。
「主人を赤子呼ばわりとはねえ。随分と強く出るようになったものだ。お前がここに来て、どれほどだったか?」
「
「光陰矢の如しとはよく言ったものだ。このままでは何も成せずに終わってしまうな」
「縁起でもない」
「いいや。生きていると何が起こるか分からない。明日、大日本帝国が滅びたとしても不思議には思わないね」
「不敬ですよ」
「男ならば、国に噛みつく度量がないといけない」
前の主人とは正反対の男に溜息をついた。彼は、腰を掻きながら屋敷に戻っていった。
「まさかこんな所に勤めることになるとは……。本当に生きていると何が起こるか分からないものだな」
恐らく寝室に向かったであろう男に再びの溜息を零しながら、この屋敷に来る前のことを思い出した。
*
それは、三月と少しばかり前の話である。雨上がりの朝の町が静かで好ましい。いつもより重いらしい砂埃は鳴りを潜めているし、他所の台所からは子気味いい包丁の音が聞こえてくる。旦那様への新聞を買って、屋敷に戻る道すがら盗み読んだ。このところ代わり映えしない見出しばかりだ。大日本帝國の未来は、諸外国のご機嫌次第なのだろうか。先の戦争は、前哨戦なのか滅亡への一歩なのかは分からないが、日本が、いや世界が動いていることだけは分かる。
「まあ、僕には関係ないか」
一介の手伝いが頭を捻ったところでこの国は変わらない。変えられるのは、一部の選ばれた人間だ。たとえば、主人のような立派な人間。
整えられた生垣に満足しながら門を開ける。板の軋む音を抑えながら、居間に入った。
「おはようございます」
旦那様は背筋を伸ばして、仏壇を見ていた。線香が赤く灯っている。部屋には、寂寥が漂っていた。
「おはよう。新聞はその辺に」
こちらを一瞥すると、すぐに視線を戻した。後ろに座して、そっと手を合わせる。
「六年だ。早いものだね」
「ええ。土間の掃除が終わりましたら、ご法要の準備をいたします。呉服店で手伝いをしている虎太郎も直に来るでしょうから」
「そうかい。呉服店というと三船屋か。奴には世話になってばかりだ」
「三船のご主人も旦那様のお陰で、軍関係の客が増えたと喜んでおりましたよ」
「そうかい。妻もね、あの店が好きだった」
視線は定まらず、どこか遠くを見つめている。
僕がこの屋敷に手伝いとして来たのは、七の頃だった。上の兄達とは歳も離れていて、五男だったこともあり、この家に手伝いとして出された。初めは実家が恋しくて泣いていたが、奥様は温和な方であったし、旦那様は厳格で頼れる方であった。奥様も旦那様も、僕を子供のように扱ってくださったから、泣くことも無くなっていった。
奥様が亡くなった晩は鮮明に覚えている。書斎から零れる嗚咽は、規律に生き、国のために死ぬ軍人とは思えないほどだった。それ程までに愛していらっしゃったのだろう。男が涙を見せることを恥だと言われようが、僕にはそれほどの存在がいないから羨ましくさえ感じられたのだった。
ここにいるのも無粋に感じられて、新聞を置いて背を向けた時だった。
「頼まれてくれないか」
「はい。何用ですか」
「出て行ってくれ」
「……何故でしょう?」
「私はお前を息子のように思っている。そのためだ」
その言葉に偽りはない。だが、だからと言って追い出す理由にはならないのではないだろうか。返す言葉に悩んでいると、主人は口角を緩めた。
「ここで勤めておいで。私の親友がいるから」
渡された紙には、本郷の場所が書いてあった。
「贖罪なのだよ」
真意を問い詰めるほどの勇気を、この時の僕は持ち合わせてはいなかった。
*
ここに来てから、自身の心持ちが変わったように思う。以前の主人は、まさに軍人であった。いつ、どこで、何をするかが規則正しく決まっていた。けれど、先生は正反対だ。起床時間、食事の回数、散歩の時間、勤務予定、何もかも赴くままである。このまま放っておけば、餓死しかねないと思う程に無頓着であった。口うるさくなるのも当然であろう。
「お茶をどうぞ」
「ああ」
流す以上に気崩れた着流しを手持ち無沙汰に直している男を見て、世の中というのはやはり解せないことばかりだと感じた。色々と欠落した男であるが、彼が名の知れた詩人である。学の無い僕でさえ、その名は聞いたことがあった。『豊潤で香り立つ詩』と称されるものの作者が、こんな偏屈者だとは何人も予想できないだろう。旦那様は「創作者は、彼等にしか見えない世界がある」と時折言っていたが、この男を指していたのだろう。あの方のことだ。売れない彼に援助をしたとかその辺りだろう。友人というには、生きている世界が二人は違い過ぎる。勝手ながらに結論づけて、腰を上げた。
「食事を持ってきますね」
先生は大きく欠伸をすると、視線を外に投げた。視線の先には、秋晴れの空があった。
「空は青いかい?」
「え? ええ。とても綺麗な青です」
「……そう」
それだけ言うと、身体を横たえた。やはり彼の言動は理解できないことが多い。
「そうだ。立花君」
だらしなく、腕を上げた男の手には小瓶があった。
「露を集めておくれ。そうさな。藤袴がいい」
「承知しました。しましたので、そのような姿勢は止めてください」
瓶を受け取りつつ、先生の腕を掴む。そのままぐいと持ち上げて上体を起こさせた。「ありゃ」と不服な声をあげた男の身体を捻って、すとんと正座をさせた。
「食事をお持ちしますから、どうかそのままで」
居間を出た瞬間、襖越しにどさりと倒れる音がした。
気にせず厨に向かう。玄関の前を通った時、かさと音がした。玄関を開けると、郵便受けの蓋が中途半端に開いていた。そこには、白い手紙が一通あった。慣れ親しんだ文字は、旦那様のものだった。
「……まずは飯だな。手紙を渡したら召し上がらなくなりそうだ」
封を開けたい衝動を抑えながら、襟元に手紙を仕舞う。
「立花君、腹が空いたよ」
居間から聞こえる声に、慌てて盆を用意して、居間へ向かう。
「お待たせしました」
居間に戻ると、案の定先生は横になっていた。
「またそうやって」
「仕方がない。横にならないと見えないものもある。ほら、君も寝てご覧よ」
「冷めますよ。腹が空いたのでしょう」
茶碗を卓においても先生は一向に起き上がらない。痺れを切らして、隣に寝転んだ。昼に居間で横になるなんて、前の屋敷では考えられないことだ。
「どうだい?」
「どうと仰いましても」
「何が見える?」
「庭が見えます。花と生垣」
垣根は丁寧に整えられている。けれど、庭に咲いた花々は、名状しがたい不均衡さがあった。美しく、けれどどこか不揃いな花たち。庭の手入れをしている時も段々になっている花たちは整えづらいものがあった。
「どんな様相かな?」
「花は花です」
「お前、ご婦人にも同じことを言えるのか」
生憎、好い女もいない僕からすれば浮いた口上なんてない。だから、目に見えたものを淡々と述べるしかなかった。加えるのなら、さっさと終わらせて飯を食って欲しかった。
「纏まっておらず、高さも合わず、色も合わず、種類も合わない庭です」
「醜いもののように言うね」
「いえ、そこまでは」
確かに好い庭ではない。庭師は定期的に来ているが、一体如何してこんな雑多な造園をしているのだろうか。けれど、主人の機嫌を損ねるのは避けたくて取り繕うように口を開いた。
「まるで駅前の雑踏のようです」
「ほう。詩的だこと」
本職に口を滑らせたことを恥じて、誤魔化すように立ち上がる。興味深そうに眉を動かした男に気づかないふりをした。
「早く召し上がってください!」
慌てて部屋を出て、私室に飛び込む。気づけば、膝を抱えて身体を丸めていた。今日は殊に西日が強い日だ。
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