第18話 カタリーナの看病と亡き母の看病

「しばらくお休み下さい」


「その必要はない。

君のおかげで毒物は特定された。

あのゴブレットを使わなければ、体調はこれ以上悪化しない」


王の執務室で、フィーリップとカタリーナが言い合いになっている。

毒に侵されていることが分かったのだから当然休んでいるのかと思ったら、彼はその後も普通に働いていた。

鉛中毒になると、鉛疝痛えんせんつうと呼ばれる持続的な激しい腹痛が起こり、全身がだるくなり、食欲がなくなり、不眠や貧血、手の震え、高い発熱などの症状が現れる。


フィーリップは今、高熱に見舞われている。

普通ならうずくまって動けなくなるほどの激しい腹痛に、今も襲われているはずだ。

にもかかわらず、貧血でふらつきながらも手の震えを隠して働いている。

その非常識ぶりに、カタリーナは怒った。


「じきに宮廷呪術師が治療の呪術を開発するだろう。

それまでの辛抱だ」


重金属中毒でも砒素ひそ中毒などは、治療のための呪術が存在する。

砒素は「相続の粉末」の異名を持ち、これを使った毒殺なら貴族社会でもお馴染なじみだ。


しかし鉛中毒は、貴族にはあまり知られていない。

安価で美しくない鉛製品を貴族は使わないため、中毒になる者も少ない。


鉛中毒患者と言えば主に鉛関連産業に従事する平民だが、彼らには呪術師に治療を依頼するほどの金はない。

このため鉛中毒に対応する治癒呪術は存在せず、宮廷呪術師たちは開発の真っ最中だ。


「呪術が開発されるまでは、お休み下さい」


「私は王だ。

弱っている姿を臣下に見せるわけにはいかない」


「おっと、お取り込み中でしたか。

お二人は随分と親しくなられましたね?」


二人が言い争いをしている最中、ノックもせずに扉を開けたのは補佐官のオットマーだった。

彼は、王の執務室を頻繁に出入りする

今となってはもう、この部屋に入るときにノックをしない。


「べ、別にそんなことないわ」


ニヤニヤと笑うオットマーに冷やかされて恥ずかしくて、カタリーナはぷいっとフィーリップから顔を逸らす。


「それで、贈答品管理官のところに行って、何か分かったのかしら?」


カタリーナはオットマーにそう尋ねて、さっさと話題を変えてしまう。


国内外の貴族家や近隣国、さらには大商人やギルドからも、王家には贈答品が届く。

毎日大量に贈答品が届くので、王宮にはそれを管理する専門官がいる。

それが贈答品管理官だ。


王族にとっては、食器選びも政治の一つだ。

式典などの重要な場で使う食器はフィーリップが自ら決めるが、彼が普段使いする贈答品などはこの専門官が決めることが多い。

問題のゴブレットの使用を決めたのは、その贈答品管理官だった。


「あのゴブレットは、ブルークゼーレ王国からの贈答品でした。

添えられていた手紙の印章や署名も確認しました。

あの国の第二王子、フロリアン殿下からの贈り物で間違いありません」


「なるほど。ブルークゼーレ王国か。

私の食器にしたのもうなずけるな」


フィーリップがそう言う。


どこの国も、他国王宮内の情報を得る体制を整えている。

フィーリップが贈り物の食器を愛用していれば、それも各国の耳に入る。


ブルークゼーレ王国は同じグリム連邦国の構成国だが、この国よりはるかに強大な国力を持つ。

あの国から贈られた食器を愛用すれば、それが各国にも伝わり、強大な国家との親密な関係を誇示できる。


「もしかして、ブルークゼーレ王国内では鉛製の食器が流行していますの?」


カタリーナがオットマーにそう尋ねたのは、そうやって滅んだ国を前世で見ているからだ。


前世のその国では、葡萄酒ぶどうしゅの味を格段に良くすると分かって、貴族たちはこぞってそれを使い始めた。

鉛は安価なため、庶民もまた葡萄酒ぶどうしゅを鉛のかめに保存し、鉛のコップで飲んだ。

その結果、国内は無数の鉛中毒患者であふれてしまった。

葡萄酒ぶどうしゅ贅沢品ぜいたくひんだった庶民よりも、食事のときは必ず葡萄酒ぶどうしゅを飲む貴族たちの方が深刻な被害を受けた。


「王妃殿下のご指示通り、外交部に行ってあの国の最新情報に目を通して来ました。

貴族も庶民も、鉛製の食器を使っている様子はありませんでした。

柔らかすぎて食器向きの金属ではない上に、見た目も美しくないですし安価です。

あの国の貴族も、この国の貴族と同じく鉛製品を好みません。

贈答品に使われたのは、やはり不自然です」


「流行の新製品を贈ったのではなく、わざわざ貴族が好まない鉛でゴブレットを作って贈ったのね。

ということは、陛下を狙ったということね?

あの国が、そんなことをする理由が分からないわ」


カタリーナは首をかしげる。


国家元首を暗殺して次にすることと言えば、通常なら侵略だろう。

しかし、あの国がそんなことを考えているとは思えない。


ブルークゼーレ王国もこの国も、同じグリム連邦国の構成国だ。

構成国への侵略を簡単に許してしまったら、連邦国自体が崩壊してしまう。

侵略したなら、連邦内の全ての国はブルークゼーレと敵対する立場を取るだろう。

連邦議会を納得させられるだけの理由があるなら話は別だが、そんな大義名分はそう簡単には作れない。


侵略ではなくこの国の混乱が目的、ということもないだろう。

ブルークゼーレ王国とこの国の間に、目立った利害対立はない。

この国を混乱させたところで、あの国は大した利益を得られない。


むしろブルークゼーレとしては、この国の混乱を避けたいはずだ。

国土を接する隣国同士だ。

王が崩御してこの国で内戦などが起こったら、そのとばっちりで大迷惑だ。

カタリーナはそう考える。


「あるいはブルークゼーレと深い関わりを持つ貴族が、この国にいるのかもしれませんね。

その貴族はブルークゼーレの名前を借りて贈り物をして、ブルークゼーレも鉛の問題に気付かずに名前を貸してしまった、ということかもしれません」


「そんなことをしそうな貴族は、ハッツフェルト家ぐらいかしら?

もちろん、その可能性もゼロではないけれど……かなり低いと思うわ」


オットマーの意見に、カタリーナは懐疑的だった。


この国の霊宝は、血縁者にのみ継承可能なものだと言われている。

フィーリップが暗殺されたなら、王位の証である霊宝を継承できるのはマルガレーテだけだ。

彼女が次代の女王になる。


しかし、マルガレーテはまだ五歳だ。

当面は、カタリーナが王政の実権を握ることになる。

遠慮無しに不可侵貴族の利権を奪い取るカタリーナに、より強大な権限を持たせることになってしまう。

そういった事態を、不可侵貴族たちは望まないだろう。


唯一、可能性があるとしたらハッツフェルト家だ。

カタリーナが実権を持ったとしても、カタリーナ一人で王政を取り回せなければ誰かを頼ることになる。

カタリーナが泣き付く先として実家を予想しているなら、ハッツフェルト家が犯人ということもあり得る。


だがカタリーナとハッツフェルト家との関係は、完全に決裂している。

その可能性はかなり低い、とカタリーナは考える。


「詳しく調べたいですが、その辺りの調査は厳しいでしょうね」


「そうね。

やっぱり、これまで不可侵貴族家に外交の権限を奪われたままだったのは痛いわね」


オットマーの意見に同意して、カタリーナは溜息ためいき


王家は今、外交に必要な情報がかなり乏しい。

これまでアウフレヒト家とオルローブ家によって、この国の外交が牛耳られていたからだ。


カタリーナの策により、ようやくこの二家を外交部から排除できた。

排除はできたが、排除前の情報は相変わらず持っていない。

排除された二家に尋ねたところで、教えてはくれないだろう。


「私の暗殺を狙う可能性がある家は、ハッツフェルト家以外にもある。

アショフ家だ。

ハッツフェルト家よりは、ずっと可能性が高い」


そうフィーリップが言う。


「アショフ家ですか?

どんな目的で、陛下を狙うんですの?」


「それはもちろん、君だろう」


「わたくしですの!?」


「そうだ。

あの家のハインツは、すっかり君のとりこのようだ。

君を得るために私を殺そうとすることも、十分あり得るだろう?」


「……その可能性は、低いと思いますわ。

陛下が天に召されてしまったら、王家の実権を握るのは当面わたくしですもの。

より大きな権力をわたくしが得てしまったら、アショフ家の利権だって今以上の速度で削ることになりますわ」


「その対価を払ってでも、君が欲しいのではないか?

君には、それだけの魅力があると思う」


(っ!!?)


驚愕きょうがくのあまり、カタリーナは固まってしまった。

フィーリップはカタリーナの手を取り、彼女の手の甲にキスをしたのだ。


深い敬愛もしくは、深い愛情を示す貴族の礼法だ。

社交界ではよく見られる作法だが、カタリーナがこれをされるのは前世を含めても二回目だった。


たとえ手の甲であろうと人前で口付けするなんて、前世では破廉恥はれんち極まりない行為だった。

今世では社交界に出して貰えず、男性との接触はなかった。


「あれ? 僕はお邪魔ですかね?」


「べ、べ、べ、別にそんなことはありませんわ。

そ、そういうわけで、へ、陛下は早くお休みになって下さいませ」


ニヤニヤと笑うオットマーに、カタリーナは恥ずかしくなってしまう。

頬を真っ赤にしつつ、恥ずかしさから唐突に話題を変える。


「うん?

いや、休むことはできない。

私は王だ」


「いいえ! 必要ですわ!

誰が陛下の暗殺を目論んだのか、まだ分かっていません。

ここは一度倒れて見せて、各家とブルークゼーレの動きを見るべきですわ。

それから、陛下がお休みの間は、わたくしが業務を代行します。

しっかりとお仕事をこなして、陛下には強力な手駒があることを貴族たちに示してみせますわ。

それができたら、不可侵貴族も少しは大人しくなりますわ」


「良いアイディアだが……しかし……」


「陛下。

この休養は、弱みを見せることではありません。

戦略の一環です!」


「……分かった。君に任せよう。

君なら信じられる」


カタリーナとオットマーは、目を丸くする。

フィーリップが「信じられる」という表現を使うのは、それほどの珍事だった。



◆◆◆



その日の仕事が終わり、カタリーナはフィーリップの寝室を訪れる。

フィーリップが休養に入って以降、カタリーナは何度もここに来ている。


ちゃんと休んでいるかの確認も兼ねた訪問だが、幸いにもフィーリップはしっかりと眠っていた。

ベッドの横に置かれた椅子に座り、眠るフィーリップの様子を見る。


ぼんやりと蝋燭ろうそくの灯に照らされて眠るフィーリップは今、その端整な顔に汗が浮かんでいる。

こんな容態なのに化粧で誤魔化して仕事をするなんて、とカタリーナはあきれてしまう。

同時に彼女は、こんなになっても一人戦い続ける彼をあわれにも思った。


ベッドに右手を潜り込ませて、カタリーナは彼の手首に指先を置く。

指先からフィーリップの体内に魔力を流して、鉛中毒の治療を行う。


細やかに魔力を調整できる自分の体内ならすぐに治せるが、他人の体を治すのは時間も掛かるし消費魔力も大きい。

宮廷呪術師が治癒呪術を開発するまで、カタリーナは少しずつ彼の体を治して症状を軽減させるつもりだ。


「……来てくれたのか」


そう言ったのは、フィーリップだった。

その日の治療を終えてベッドから手を引き抜くと、それでフィーリップが目を覚ましてしまった。


フィーリップは、優しげな眼差しをカタリーナに向ける。

彼らしくない無防備な優しさが浮かぶ瞳に、カタリーナの胸は高鳴る。


「夢を見ていた」


「どんな夢ですの?」


「幼い頃、母上に看病してもらった夢だ。

母上の方がずっと体調が悪いのに、君と同じように、ベッドの脇の椅子に座って付き添ってくれたのだ」


「……そうですか」


カタリーナは、曖昧な言葉しか返せなかった。

残り少ない命なのに、その命を燃やし尽くすように、彼の母親はフィーリップに愛を注いだ。

自分もそれだけ愛されたのだから、マルガレーテにも愛を注いでほしい、とは言えなかった。


今世ではカタリーナもまた早くに母を亡くしている。

だから彼女にも理解できた。

亡き母との想い出は、他人が軽々に触れて良いものではないことを。


「誰も信用するなと、母上は繰り返し私に教えてくれた……。

しかし私は今、心のどこかで君を信用し始めてしまっている。

私は、間違ったことをしているのか?

君はどう思う?」


「陛下のお母様の教えが、間違っているとは思いません。

ですが、いつも正しいというわけでもないとも思います」


「……どういう意味だ?」


「もし陛下が天に召されて、わたくしもまた余命幾ばくもないなら、わたくしだって誰にも弱みを見せないようにってマルガレーテに教えますわ。

あんな幼い子が、この王宮でこれから一人戦い続けなくてはならないんですもの。

どうしても心配で、そうしてしまうと思いますわ。

ですが今の陛下は、即位されたばかりの頃とは状況が違います。

もう未熟な幼子おさなごではなく、十分な経験を積まれた大人です。

無闇むやみに人を信じるなんてされないでしょうから、信用できる方なら信頼されても大丈夫だと思いますわ」


「そうか……もう幼子ではない、か……」


「人を信じて自分の弱みを見せる、というのはとても難しいことですわ。

ゆっくりで良いと思いますの。

まずは、置かれた状況から見て信用できる人を、少しずつ信頼してみてはいかがですか?」


急な価値観の変化を、カタリーナは求めなかった。

フィーリップもそう簡単には考えを変えられないだろうと、彼女は思っていた。

亡き母の言葉がどれほど重いのかを、その呪縛の強固さを、母親を亡くした彼女は知っていた。


「君は、信用と信頼という二つの言葉を使ったな?

これらは違うものなのか?」


「わたくしは、別のことだと思いますわ。

わたくしの言う信用とは、置かれた状況や過去の実績から見て裏切らないと合理的に推測することです。

わたくしの言う信頼とは、合理的に考えたら裏切ってもおかしくない人を、それでもなお信じることです。

一度裏切ってしまえば信用をくしてしまいますが、それでも、その人を信頼することはできますわ」


「……裏切ってもおかしくない者を信じるのは、愚かではないのか?」


「愚かかもしれませんわね。

ですが、人が人として生きるために必要なことだと思います。

もちろん、政治の中でそんなことを無理にする必要はありませんわ。

でも私的な場面ではそうされた方が、きっと陛下も幸せになれると思いますの」


「私的な場面など、王である私にはないだろう?」


「ないなら作るべきですわ。

王だって人間ですもの。

人であって感情をお持ちなのに、全く感情のない国家機関になりきろうとしても無理がありますわ。

私的な面の充実こそ陛下の幸せの道だって、わたくしは思いますの。

陛下は、人としてのご自分をもっと大切にされるべきですわ」


「人としての自分……幸せ……考えたこともなかったな」


ベッドの上で呆然とベッドの天蓋を眺めていたフィーリップが、ベッドの横に手を伸ばしてカタリーナの手をぎゅっと握る。

すがり付くような力強い握り方と、熱を帯びた彼の眼差しに、カタリーナは胸の鼓動が高鳴る。


「まずは、君を信頼しようと思う。

信用できる者、と言えば君が一番だ。

家にも縛られず、ただ王家に尽くしてくれている。

こうやって弱みを見せても、それに付け込んで謀略を巡らせることもないし、恩に着せて何かを頼み込むこともない。

君を信頼することで、私も少しだけ、人としての自分を大切にしてみようと思う」


「はい。

ご期待を裏切らないよう、精いっぱい努力しますわ」


カタリーナが笑顔でそう言った。

その晴れやかで美しい笑顔に、フィーリップは呆然ぼうぜん見惚みとれてしまった。


「それから、わたくしだけではなく、マルガレーテもご信頼頂きたいですわ。

陛下はもう少し、マルガレーテとお話しした方が良いと思いますの。

あの子に渡した魔道具は特に強力ですから、もう簡単に暗殺されたり人質に取られたりはしません。

愛して上げたとしても、大した弱みにはなりませんわ」


「……いや、マルガレーテとの関係は、今のままで良い。

それが、あの子のためだ」


(もう!! 何でなのかしら!?)


カタリーナはがっくりしてしまう。

どうしてマルガレーテとだけはかたくなに距離を置こうとするのか。

それが理解できなかった。


人としての自分を大切にすることに同意してくれた。

亡き母の教えとは違うことを、ようやくする気になってくれた。

にもかかわらず、マルガレーテとの関係だけは一切変えようとはしない。

そこにカタリーナは、矛盾を感じる。


(お母様の教えが原因だってオットマーは言っていたけれど、それだけではないのかもしれないわね)


そう考えなければ、このかたくなさを理解できなかった。

だがカタリーナは、諦めるつもりはなかった。

フィーリップは、マルガレーテの父親だ。

マルガレーテのために、この機能不全の父親を立派な父親に変えるつもりだった。


(はあ。

少し変わってくれただけでも、前進と考えるしかないわね。

この人を変えるのは、本当に骨が折れるわ)


もちろん、フィーリップの信頼を裏切るつもりはない。

そんなことをしたら、明るい家庭から遠ざかってしまう。

だが、自分だけがフィーリップに近付いたら、マルガレーテが孤独になってしまう。

フィーリップとは一定の距離を保たなくてはならない。

心の中で溜息ためいききながら、カタリーナはそう考えた。

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