第16話 夫婦の関係と優しげな美青年

「このお酒、美味しいですわ」


フィーリップが注いでくれたお酒を一口飲んで、カタリーナが言う。


かなり強い酒のようだ。

しかしアルコールの刺激的な味を芳醇ほうじゅんな甘みが包んでいるため、それを感じさせない。

なめらかな甘さの中にも、カラメルを焦がしたような柔らかな苦みがあり、ほんのりとした後味はバニラのようだった。


「フランクンアイシュ王国から手に入れた酒で、ラム酒というものだ」


外国から珍しい酒を買い入れたから、という理由でフィーリップから酒席に誘われた。

これがその酒だった。

確かに珍しい。

カタリーナは、名前を聞くのも初めてだ。


最近はこうして、頻繁にフィーリップから酒の誘いがある。

唯一の飲み仲間からの誘いであり、しかも驚くほど話が合う人からの誘いだ。

カタリーナもまた、彼からの誘いを心待ちにしていた。


会話を途絶えさせることなく、フィーリップはうさぎの丸焼きから肉を切り分けてくれる。

目の前に置いてくれた皿の上の肉は、全てカタリーナの好きな部位だ。


(一緒にいて、本当に楽な人なのよね)


穏やかで話が合うだけではない。

こういうさり気ない気遣いも、彼はよくする。

フィーリップと一緒にいて心地良く感じるのは、これも大きな理由の一つだとカタリーナは思う。




陽気な会話が一区切りしたところで、フィーリップは黙り込んでしまう。

押し黙った彼は、真剣な表情だった。

何か重大なことを伝えたいのは、その雰囲気でカタリーナも分かった。


「……できれば……君とやり直したい」


フィーリップの緊迫した表情が、その言葉をより重いものにしていた。


「それは、どういう意味ですの?」


「形式的には結婚をしているが、私たちの関係はとても夫婦とは呼べないものだ。

それを修復したい。

君と、本当の夫婦になりたい」


「え?」


唐突にそんな話をされて、カタリーナの心臓は跳ね上がる。

心を静めるためにラム酒を一気に飲み干すが、そんなことでは収まるような動揺ではなかった。


「今、子供ができたら、せっかく君がやりこめたハッツフェルト家が即座に息を吹き返してしまう。

だから、すぐにはできないが……いずれは君と、夜を共にしたいと思っている。

心を通わせる本当の夫婦になりたいと、そう思っている」


「な、な、な、何を……」


夫婦であるなら、夫婦の営みをしてもおかしくはない。

だが、いくら何でも表現がストレートすぎる。

カタリーナは顔が焼けるように熱くなり、声は震えてしまう。


隣でたじろくカタリーナに対して、フィーリップは遠慮なしに手を握る。

唐突に肌が触れ合うことで、カタリーナは全身の血が沸騰したようだった。

恥ずかしさがざくざくと心に刺さるようで、苦しくさえあった。


「あ、あ、あ、あ、あの。

そ、そ、それでマルガレーテとの関係は、ど、ど、どうされる、お、お、おつもりですの?」


「変えるつもりはない。

あの子は、あまり私に依存させない方が良い。

それが……あの子のためだ」


(そう。そうなのね……)


冷水を浴びせられたようだった。

極度に高揚していた気分が、一気に氷点下まで落ちる。

ジェットコースターのような乱高下だった。


「……わたくしは、本当の夫婦の関係になるより、このまま王と王妃の関係を続けるべきだと思いますわ」


「……そうか」


自分の手の上に置かれたフィーリップの手を、カタリーナは振り払う。

振り払ったカタリーナの手を見て、フィーリップは哀しげな目をした。


「本当の夫婦とは、二人で同じ一つの家庭を築くということですわ。

ですが陛下とわたくしでは、家庭観が違いすぎます。

一つの家庭を二人で築く作業を続けていたら、いずれ衝突することになるのは目に見えていますわ。

政治にも影響が出かねませんから、今の距離を保つのが上策だと思いますの」


フィーリップは押し黙ってしまった。

ショックを受けた様子だった。


おそらくフィーリップは変わらない。

この話題で次に彼が口を開いたときも、その主張はこれまでと全く同じだろう。

そうなれば話は平行線だ。


カタリーナも譲れないから、口論になってしまうかもしれない。

それは避けなくてはならない。

彼は、明日も打ち合わせの予定がある政治上のパートナーだ。

そう考えたカタリーナは、彼との良好な関係のために席を立った。




(いろいろと頑張ってみたけれど、陛下の家庭観は変えられそうにないわね……)


フィーリップの価値観を変えようとこれまで努力を続けてきただけに、カタリーナは気持ちが沈んでしまう


自室に戻る道すがら、カタリーナは考える。

フィーリップがマルガレーテとの関係を変えたくないのは、弱みを作りたくないからだろう。

大切な人を作るのは、大きな弱点を作るのに等しい。

マルガレーテを人質に取られたり、彼女の立場に打撃を与えると脅されたとき、その要求をまざるを得なくなってしまう。

それが彼には、できないのだろう。


自分に対してのみ好意を示すのは、カタリーナの場合は例外的に弱みにならないからだろう。

数十人程度の暗殺者を送り込まれたところで、カタリーナなら悠々と返り討ちにできる。

人質になることもないだろうし、殺すという脅しも意味をなさない。

政治的な計略にめようにも、カタリーナなら一人で対処してしまう。


依存しても弱みにはならず、しかも生家のしがらみに縛られることもない。

フィーリップにとっての自分は、そんな都合の良い女だったのだ。


正直に言えば、フィーリップには少しかれていた。

都合の良い女として必要だったのだとしても、話に乗ってみるのも悪くはないと思った。

前世でも今世でも経験したことのない、恋というものをしてみたい気持ちは、大きな誘惑だった。


(でも、駄目よ。

それはできないわ)


改めて、カタリーナは自分を戒める。

自分だけがフィーリップと関係を近付けたら、マルガレーテは疎外感に苦しむことになってしまう。

愛情を求めて止まない今のマルガレーテに、仲間外れの悲しい経験をさせるわけにはいかない。

もしフィーリップとの距離を縮めるなら、必ずマルガレーテと彼の距離も近付く形でなくてはならない。


(家庭観さえ変わってくれれば、本当に条件は良いのよね……)


だが、その唯一の欠点は、譲歩できない致命的なものだった。


ふう、とカタリーナは息をく。

落胆が溜息ためいきになって、口から漏れたようだった。



◆◆◆



フィーリップとの飲み会は、頻度が急減した。

相変わらず誘われてはいるが、カタリーナがそれに乗るのは三回に一回程度に減った。


仕事上のパートナーだから、良好な関係を崩すつもりはない。

しかし、必要以上に親しくなるのも、マルガレーテを想うとできない。

だからカタリーナは、少し距離を置くことにした。


「王妃殿下。ご機嫌麗しゅう存じます。

またお会いできて光栄です」


図書館で呪術の勉強をしていたところ、一つ歳上の男性から声を掛けられる。

この状況でカタリーナに近付いたのは、ハインツ・アショフだ。

不可侵貴族であるアショフ侯爵家の小侯爵、つまり後継者だ。


緑掛かった茶色い髪に、オレンジに近い茶色の瞳の彼は、優しげな顔立ちをしている。

涼やかでシャープな美貌のフィーリップとはまた違った種類の、穏やかそうな美青年だった


「また呪術の本を読まれているんですね?」


カタリーナは呪術が使い放題になる霊宝を持っている、と貴族たちには思われている。

その誤解を長続きさせるには、呪術に見えるような魔法の使い方をした方が良い。

だからカタリーナは最近、呪術について特に勉強している。


それが、彼との出会いの切っ掛けだった。

王宮の図書館でカタリーナが呪術の本を読んでいたところ、彼に話し掛けられたのだ。


使うと運が悪くなり寿命が縮まるため、貴族自身が呪術を使うことは滅多にない。

だから、ほとんどの貴族は、呪術にそれほど詳しくない。

せいぜい、有名な術の名前を知る程度だ。


だがハインツは、呪術が好きだった。

とても詳しかった。

術の発動手順の、各流派での違いなどもよく知っていた。


魔法を呪術だと思わせたいカタリーナとしては、発動手順は知りたい情報だった。

必然的に彼との会話も弾み、気付けば呪術以外のことも話すようになっていた。


「天気も良いですし、良かったら王宮の庭園を散歩でもしませんか?

ちょうど虞美人草ポピーの花畑が見頃です」


今日もまた呪術の話から話題が変わり、王宮庭園の花についての話になった。

そこで、カタリーナは誘いを受ける。


「まあ。お誘い下さるの?

嬉しいわ」


親しくはしているが、彼は不可侵貴族であるアショフ侯爵家の後継者だ。

彼の一族も、いずれ王宮から排除するつもりだ。

敵の情報を得るため、カタリーナは喜んで誘いに応じる。




爽やかな風が吹く五月の王宮庭園は、様々な花が咲き乱れていた。

意外に背の高い彼にエスコートされ、庭園を歩く。

細い小道に入ってしばらく歩くと、白とピンクの虞美人草ポピーの花畑が二人の前に広がる。

そこで足を止めた二人は、風が運ぶ初夏の花畑のかおりと、鮮やかに咲く一面の花を楽しむ。


白い花を咲かせる天竺葵ゼラニウムも、小道の脇に沿うように並べられていた。

カタリーナは腰を落として、その小さな花も愛でる。

微笑むカタリーナを、ハインツはにこにこと眺めていた。


カタリーナたちそうしていると、貴婦人たちが小道の先から姿を見せた。

視界に入った人物の一人がカタリーナであることに気付くと、貴婦人たちは足を止めて露骨に顔をしかめる。


「行きましょう」


そう言ってカタリーナの手を引っ張って立たせると、ハインツは彼女の手を引いて貴婦人たちとは反対方向に歩き始めた。


(ええっ!?)


唐突に男性から手を握られ、手を引かれてリードされるように歩くことになってしまった。

優しげな美青年がした唐突で強引なスキンシップに、カタリーナは動揺してしまう。


「あなたは、わたくしを嫌わないのね?」


微笑みで動揺を隠しつつ、カタリーナは尋ねる。


先ほどの貴婦人たちの反応こそ、普通の不可侵貴族の態度だった。

不可侵貴族家の力を露骨に削ぎ始めたカタリーナに対して、標的にされた彼らは警戒と嫌悪を隠さない。


ただ一人、ハインツだけが違った。

会う度に彼は、人の良さそうな笑みでカタリーナに近付いて来た。

彼だけが違う態度なのが、カタリーナには不思議だった。


「……初めてお声掛けするより前から、純粋に王妃殿下に興味があったんです」


「あら? そうなの?

いつ頃で、どんな切っ掛けなのかしら?」


「僕は本が好きなので、家の本は粗方あらかた読んでしまったんです。

それから、ときどき王宮の図書館に来るようになりました。

あるときから、来る度に王妃殿下をお見かけするようになって、それから気になってずっと目で追っていたんです。

今年の初めぐらいからで、お声掛けするより四ヶ月ほど前です」


「わたくしの、何が気になったのかしら?」


「横顔です」


「横顔?」


「はい。

真剣な顔で本に目を落とす王妃殿下は、噂とは違ってとても聡明そうめいそうでした。

それに……大変な美しさでした。

静かな図書館で一人本を読まれる王妃殿下は、まるでそこだけ別世界のような美しさで、さらりと髪が落ちるだけでも心が弾んでしまって、目が離せなくなってしまったんです。

それから、王妃殿下を一目見るために、毎日ここの図書館に来るようになったんです」


カタリーナの手を引くハインツは、照れ臭そうに笑う。

穏やかそうな顔立ちの彼は、笑うと予想以上に可愛らしかった。


甘いマスクの青年から強引に手を握られただけでも、カタリーナは動揺していた。

手をつないだまま、追い打ちでそんな褒められ方をして、カタリーナの動揺はより大きくなる。


「お、お、お上手ね」


「いいえ。本心です。

あなたは本当に……美しい」


(っ!!?)


ハインツは立ち止まり、握っていたカタリーナの手の甲にキスを落とす。

男性が女性に対してする貴族の作法だ。

その意味するところは、深い敬意もしくは、深い愛情だ。


「そ、そ、そ、そういえば、こ、これから予定があったの。

わ、わ、忘れていたわ。

こ、こ、これで失礼するわね?」


恥ずかしさに耐えきれなくなったカタリーナは、その場から逃げ出した。

ハインツのくすくすと笑う声が背後で聞こえたが、羞恥に突き動かされたカタリーナは振り返ることができなかった。



◆◆◆



「王妃様さあ。ちょっと、チョロすぎなんじゃないの?」


自室に戻ってもカタリーナは胸の高鳴りが収まらず、勢い余ってハインツとのことをエミーリエに話してしまった。

それで返って来た言葉がこれだった。


「どういう意味かしら?」


「チョロすぎ」という王宮ではまず使わないスラングの意味を、カタリーナは知らなかった。


「だってそうでしょ?

陛下にちょっと迫られたら動揺して、アショフ小侯爵に迫られたら、また逃げ出しちゃうぐらいに動揺しちゃったんでしょ?

確かに、どっちもすごい美形だけどさ。

それを差し引いても、とても人妻とは思えない、驚きの耐性の無さなんだけど?」


その追加説明で、カタリーナも「チョロすぎ」の意味を理解する。


「……仕方ないじゃない。

今世では物置みたいなところに閉じ込められて育ったから、男性とお話しなんてほとんどしたことがないし、前世ではあんなに過激なことを言う人なんて、いなかったんだもの」


「へ? 過激? どこが過激なの? 

王妃様の前世では、どんな愛情表現してたの?」


「そうね。たとえば愛を伝える言葉なら『月が綺麗ですね?』とか『お花が良い香りですね?』とか、そういう表現が一般的だったわ」


「そんなので伝わる方が、逆に驚きなんだけど!?

それじゃ、おちおち異性と月見もできないんじゃない?」


「お月見ぐらいなら、問題なくできるわ。

言葉通りの意味で月が綺麗って言うことも、もちろんあるもの。

そういう言葉は、前後の文脈で意味も変わるのよ」


「行間読めない人は、痛い勘違い連発で、すっごく生き辛そうな国だね」


「慣れれば、そんなことはないと思うけれど……。

あなたの前世では、どんな言葉で表現していたの?」


「王妃様の前世の国はもちろん、この国の人たちよりもストレートな表現だったよ。

『エッチしよー』とか『今夜は君を抱きたい』とか言う人も普通にいたしね」


「……信じられないぐらいに、品のない表現ね。

そんな国で、生きていける自信がないわ」


「慣れれば、そんなこともないって」

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