未知の集落(2)

 結局、台風はその後どんどん予想進路を逸れ、日曜日は皮肉なほどに絶好の天気になった。西谷はなんとも言えない気分で待ち合わせ場所の駅に向かった。


「エ、ホームとの間に、エ、隙間がございます。エ、お足元、落し物にご注意くださ……」

 ブツブツと雑音の入る車内放送を聞きながら電車を降りると、肌に貼り付くような湿気が西谷の全身を包んだ。午前中に降ったにわか雨の匂いが強く残っている。あまり暑すぎると撮影が面倒だと思っていたが、意外と気温は下がっていた。


 改札を出ると、柱の前でスマホを見ていた長身の若者が顔を上げて手を振った。

「おっ、ずんづぶさん」特徴の少ない丸顔に屈託のない笑顔が浮かんだ。この丸顔とくるくる変わる表情のせいで、視聴者からはよく「絵文字」と言われる。

「シロモンモさん、どうも……」西谷は口籠もりながら応えた。

 往来で配信名を呼び合うのは相変わらず慣れない。


「満天卿さんは先に車取りに行ってる」シロモンモはいつもと変わらない、快活な調子で言った。「やー、なんか涼しいよね。ていうか寒気しない? 俺だけ?」

「まあ、まあ、ジトっとくるね」

「でしょう。心霊撮影にはいい天気だ」

「心霊って……今日行くところ、そういうのじゃないよな?」

「いやせっかくだから、ちょっと怪談っぽく行きたいな。涼しくて空気が湿ってると、すごくいいんよ。雰囲気が出やすくて」

「へえ……」


 きっと、現地に着いたらシロモンモは「なぜか急に寒くなってきた」という体の画を撮るのだろう。西谷はその白々しい撮影を想像して、気が重くなった。


 バス停がぽつぽつと並ぶロータリーに出ると、カーシェアリングのステッカーがついた軽ワゴンが二人の前に着いた。

 西谷達が後部に乗り込むと、運転席の男は身体ごと振り向いて「えっと、ずんづぶ君と、シロモンモ君だよね」と言った。


 満天卿はいつも通り、シルバーのメッシュを入れた長髪を一つ括りにして、薄く色の入ったサングラスをしていた。


「なんで、そんな念を押すんすか?」シロモンモは笑いながら聞いた。

「いや、俺、相貌失認だからさ。わっかんないのね、顔見ても。こないだ全然関係ない人乗せて走り出しちゃって……」

「いや、それは、乗ってくる奴もおかしいでしょ」

「たぶん車が似てたんだと思う。堂々と乗ってこられたら、こっちは相手が正しいんだろうと思うじゃん?」

「いや、それは俺でもたぶんそう思いますよ……相手が自信満々で来たら」


 シロモンモと満天卿の会話が弾むので、西谷は聞き役に回ることにしてぼんやりと窓に流れる景色を眺めた。

 片側三車線の幅の広い道路沿いに、電器屋、服屋、家具屋、ファミレスなどのチェーン店が際限なく並ぶ。荒い運転の大型トラックが連なり、道はずっと渋滞気味だ。この道だけを見ていると、それなりに賑わっているように感じてしまう。実際には、この道沿い以外は田畑と防風林しか無いのだが。


 立体交差のある大きな十字路から脇道に入ると、まもなく、乗用車がようやくすれ違える程度の林道に繋がった。


「昔ね、こっちにも線路が延びてたんだよ」

 満天卿がハンドルを握りながら首を巡らせた。満天卿の言う「こっち」がどの方向を指しているのか、西谷にはわからなかった。生い茂った枝葉が細い道をトンネル状に包み、緑の海の中に潜っているような気分になる。道は細かく不規則なカーブを繰り返し、すでに方角もわからない。


「あの駅から分岐してたってことですか。なんで廃線になっちゃったんですかねえ」シロモンモがのんびりした口調で聞いた。

「まあ、過疎化だよね。平成の大合併で、市の一部になった後……」

「あー。たぶん俺が生まれた頃くらいっすかね」

「げえ」満天卿は半笑いで変な声を上げた。「もうそんな経ってる? 嘘やろ」


 林道が途切れてすぐに、満天卿は道端の三角形の空地に車を停めた。傾いてひどく錆びついた「月極駐車場」の看板があったが、明らかに長年使われていない様子だ。


「もう、すぐ、そこだけど」満天卿は林に沿ってカーブする道の先を示した。「一応、この道を撮りながら行って、役場にも顔出しておこうか」

「役場なんかあるんですか」西谷は聞き返した。

「まあそう、市役所の出張所って形。それと向こうの方にあるキャンプ場の案内所がくっついてて、土日も案内所だけは開いてる」

「へえ……」


 シロモンモは早速、カメラを回しながら歩いていた。塗装が剥げて歪んだポストや、傾いて藪に埋もれた公衆電話ボックス、錆びて捻じ曲がったガードレールなど、それらしいものを見つけては念入りに色々な画角で撮る。シロモンモの動画は、満天卿が冗談混じりに「コマ撮りアニメ」と言うくらい、切り替えや早送りが多用され情報量が多い。当然、必要な「撮れ高」も膨大なものになり、撮影自体がかなりの労力を要する。


 手間をかけすぎではないかと、西谷はときどき思う。


 西谷達が活動のメインにしているプラットフォームは、元々はスマホで自撮りしたスナップを「撮って出し」で共有する場だったはずだ。求められるのは日常感や親近感であり、質よりも量、頻度がものを言う。「オススメ」タブ常連のトップ層は、大量のスタッフを雇って高品質な動画を毎日出すが、西谷達のような個人勢はひとまず定期更新の波に乗り続けることを優先しなければならない。西谷が見る限り、シロモンモは慢性的にこの波に乗り遅れていた。


 手間がかかるわりに、と言うより、手間をかけすぎるからこそ、更新頻度が落ちて伸び悩む。だから疲弊して、昨日のように文字だけの投稿を晒す羽目になったりするんじゃないのか。


「おーっ! これはまた、味のある」

 シロモンモは、表面的にはいつも通り元気そうだった。

 木立に囲まれるように建つ横長の廃屋を見つけ、そちらにズームする。窓が全て割れ、コンクリートの壁があちこち崩れ落ち、錆びた鉄筋が剥き出しになっている。二階建ての四角い建物で、中央に幅広の、段差の細かい昇降口があった。

「ああ、これ、昔の役場か」満天卿が、正面入口の傍に埋め込まれた看板の字に目を凝らして言った。「近くに、新しい役場もあるはずなんだが」


 新しいほうの役場は見当たらなかった。こういう田畑か森林ばかりの地区は住所も曖昧らしく、ウェブで調べても詳細な位置が特定できないようだ。

「まあ、電話で話は通してあるから、いっか」

 満天卿は早々に役場を探すのを諦め、廃墟になった旧役場の写真を数枚撮って先へ進んだ。


 満天卿のカメラは旧式のコンデジで、動画はほぼ撮らない。写真を撮り溜めて動画ソフトに丸投げし、AIにエフェクトとBGMを付けさせて投稿している。面白味には欠けるが、とにかく更新が早いし、クオリティにブレがない。

 それに、長年様々なサイトで人脈を築いている満天卿には「友達」が多く、何を投稿しても西谷やシロモンモより伸びやすかった。


 初めからフェアではない世界だ。西谷は自分に言い聞かせる。部活や受験とは違う。誰かがルールを整備して、勝負をお膳立てしてくれるわけではないのだ。

 数字を稼いだ者だけが正義だ。


 目的地が見えてきたので西谷はカメラを取り出し、胸元のマイクのスイッチを入れた。

「ハイ、こんちは。今日はね、とあるローカル線の、廃線沿いにある集落まで来てます。ここはね、廃墟を再利用したラブホが再度廃墟になったという、ちょっとした、その筋ではちょいと有名なスポットかもしれませんね、まあおれは今日初めて知りましたけども……」


 片側の足が取れたベンチが道を塞いでいた。背もたれに渡された合成材の板が真っ二つに割れ、端のほうが焼け焦げて煤だらけになっている。

 どういう経緯があればこんな壊れ方をするのだろうか。


「なんだこりゃ。雷でも落ちたか」満天卿は錆びたガードレールを跨いで、車道側に避けた。


「どうも目的地に着く前から、すごく寂れてますね」西谷はカメラがぶれないように注意しながら素早く首を巡らせ、ガードレールに仕切られた通路と車道、壊れたベンチが見やすく映る角度を考えた。


「うーわ。エモい」シロモンモは二、三歩手前からベンチの焦げた部分に寄っていく映像を数回撮り直した。「あ、なんだこれ? うわあ」

 シロモンモは左手でカメラを構えたまま右手を伸ばし、割れた背もたれの隙間に押し込まれていた汚いペットボトルを引っ張り出した。


 容器全体が黄色っぽく濁り、虫に食われたような穴が無数に空いている。見つめると気分が悪くなりそうで、西谷は目を逸らした。

「いつのだろう、これ。プラスチックがこんなになる?」シロモンモはボトルを自分のズボンに擦り付け、表面を覆う煤と土埃を拭った。僅かに残っていたラベルの切れ端に見慣れた企業のロゴが浮かぶ。


「見てこれ、すごい。『ロサンゼルス五輪が当たる! 応援キャンペーン、コードはこちら』」シロモンモはラベルに目を近づけて感心した声を上げた。「ロサンゼルスなんて何年前だろう。めちゃ古くない?」


「いや……前のロス五輪って八十年代だぞ?」満天卿が言った。丸いサングラスの奥の目が不審げに細くなる。

 無邪気に興奮するシロモンモと対照的に、満天卿の顔はみるみる曇っていった。


「八十年代にQRコードがあるわけない。そもそもペットボトルって普及したのは平成になってからだろう」西谷は容器のボツボツ模様を直視しないように気をつけながら、ラベルの切れ端を横目で見た。「このロス五輪はだ」

「はあ? え、じゃ、どういうこと?」シロモンモは素っ頓狂な声をあげた。

「だから現行の商品だよ、これは」


 西谷はカメラを止め、来た道を振り返る。

 廃墟となった役場、ポスト、公衆電話、ガードレール……どれも、単に劣化しているだけではなく、異様な力で薙ぎ倒されたように崩れて歪んでいた。

 他のものに気を取られて見落としていたが、制限速度や追い越し禁止の標識がすべて、地面に付いている。ポールが根本から曲がっているのだ。


 ずっと頭のどこかにあった違和感が、猛烈な勢いで膨れ上がってくる。


 誰にも会わない。車も通らない。鳥や虫の声もしない。

 寂れた過疎地だから、では説明が付かないくらい、静かすぎる。


「ここで何があったんだ?」

 西谷は誰にともなく呟いたが、他の二人がその答えを知っているとは思えなかった。

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