未知の集落(3)
三階建てのラブホテルの跡地は、破れたフェンスと藪に囲まれていた。ドアの無くなった裏口から入ると、カビとドブのにおいが混じったような、据えた空気が出迎えた。
暗い廊下はひび割れたコンクリートが剥き出しで、元が何だったのかわからない様々な瓦礫が散乱している。吹き抜けになっている階段下にだけ、天井からの日差しが差し込んで眩しい。西谷のカメラは逆光を処理しきれないようで、画面の色味が安定しなかった。
階段を上って行くと、空気のにおいは少しましになった。その代わり、コンビニの袋や発泡酒の空缶など、最近ここに遊びに来た者達が残したゴミが目立つようになった。
二階と三階の間の少し広い踊り場が、他のインフルエンサーの動画でもよく見る撮影スポットだった。大きな窓の一部がステンドグラスになっていて、花園と水鳥が描かれている。かなりヒビが入っているものの、なんとか形は保たれており、昼間の日差しが差し込むと踊り場の床がカラフルに照らされる。
「めちゃいいね。こいつらで台無しだけど」シロモンモは床の端に積み上がった空の菓子袋や弁当の容器を見て言った。
「このまま、これも込みで映したら面白いかも」満天卿が言った。
「まあそれはそれで撮ってもいいっすけど、ダンスは片付けてからだなあ。汚いのはウケない」
「腹立つわ……こいつらもどうせ撮影だろう?」西谷は潰れた菓子箱を靴の先で押し、その陰から大きな蜘蛛が這い出したのを見てげんなりした。
「まあでも、人の痕跡があるとちょっとホッとするよ」と、満天卿は言った。「こんだけゴミがあると、少なくとも長居できる程度には安全なんだなって思うね」
「まあ、確かに……」西谷は曖昧に頷いた。
しかしその基準で言うと、来る途中に見た黒焦げのベンチや曲がった標識は、やはりすごく不吉に感じられた。結局、現状では撮影に支障が無さそうなので、中止して帰るという選択にはならなかったが。それでも、他の二人のどちらかが引き返そうと言ったら、西谷も賛成したかも知れない。
味のある廃墟の残念な実態をそれぞれがカメラに収めた後、床のゴミを脇に寄せて片付けた。シロモンモのカメラを三脚で固定し、ステンドグラスをバックにダンスを撮影する。
事前にシロモンモが指定したダンスを西谷も練習してきたのだが、振り付けが左右逆になっていた。
「逆なら逆でいいよ、シンメトリーってことで。あと上手く加工するから」
シロモンモはそう言ったが、他の二人の動きが逆だと混乱してしまい、上手くいかなかった。
「すいません、三回だけ……二回だけ。練習させて、すぐ直すから」
「したら俺、ちょっと一服してきていい?」満天卿は煙草を取り出して咥えながら階段を下り始めた。
「別にここで吸っていいんじゃないすか。禁煙とかないでしょ?」シロモンモが笑ったが、
「いや、人の練習見てると今度は俺が間違えそうで」
「すいません」西谷は言った。
「全然。全然。時間はあるし」満天卿はむしろ、煙草が吸えるのが嬉しそうな足取りでさっさと下りて行った。
「ずんづぶさん、ごめんな。たぶん、本当はあの人が逆なんだよ」
満天卿の姿が見えなくなると、シロモンモは声をひそめて言った。
「そう? まあ、おれが直した方が早いだろうし」
「すまんなー。結構、逆で踊ってる人達もいるから、どっちでもいいっちゃいいんだけど」
咄嗟にどちら向きでも踊れるシロモンモは器用なのだろう。三人とも、元はダンスなどに縁が無い人間なので、かえって素質の差が出やすい。シロモンモが一番適性があって、西谷は今ひとつぱっとせず、そして満天卿は毎度、かなり苦労をしている。
それでも、三人で踊っている動画が一番「跳ねる」のだ。
一通り、振り付けを確認し終えて、まだ満天卿が戻らないようなので、西谷は上に続く階段に腰を下ろして休憩した。
シロモンモは三脚の高さを調整しながら、「なあ――これはただの愚痴というか独り言だけどさ」と言った。
「ええ? 何」西谷は少し緊張した。
「先週、実家に呼び出されてさあ……何かと思ったら、お袋が、腫瘍見つかったのね。癌じゃなくて、良性のだって言うんだけど。そんで、早めに取ったほうがいいんだと、手術して」
「あら……それは、えっと、お大事に」
「それでこの機会とばかりに、いつまでフラフラしてんだと言われてさ。フラフラはしてねえって言い返したんだけど、まあ我ながら説得力は無いよねえ。ほぼほぼ収益化できてないわけだし」
「まあ、それはね……いいんじゃないの。自立してやれてるぶんには」
「俺も、そう思ってたんだけど、実際、親がもうそういう歳なんだなって実感したら急に不安になって……不安というのか、すごく動揺しちゃったんだよな。やっぱ、どこかで見切りをつけてちゃんとした就職をしなきゃダメかもなあ、と思って。いい加減に大人になれ、大人にならなきゃ……っていう圧力を、今すごく感じてる。かと言って、今すぐ辞めるつもりはないんだけどさ」
「へえ……」
大人になる、か。一般論としてよくそう言われるような気がするが、どういうことなのか西谷にはピンとこない。例えば正社員になるとか、結婚して家族を養うとか、ローンを組んで家を建てるとか………そういうことをするのが大人で、それをしてない奴は不真面目な半人前、ということになるのだろうか。しかしその感覚自体が、今となってはかなり時代錯誤になっている。そのはずなのに、いくら探しても、新しい時代に合った人生観は示されない。
たぶん、誰もよく知らないのだ。おれたちみたいな人間が、このまま現状維持で生き延びて、老いたら、その結果としてどんな人生になるのか。手本となる先人がいない。あるいは、いても表には出てこないのか。
「ずんづぶさんは、そういうの不安にならない?」シロモンモは聞いた。
「うーん。なんとも……まだ辞めたくはないし」
「いや、俺だって本当にこれ続けたいんだよ? お袋のことさえなければなって思う。手術、結構金掛かるらしいんだよね。当然だけど入院するし、癌じゃないからそのぶんの保険は下りないしさ。だから……一刻も早く結果を出したくて。そんで、出せなければ、適当なところで辞めないとなって」
「親、そんなに困ってるの」
「わからん。金は大丈夫だとは言ってるけど。でもそれが、どこまで本音なのかねって話。息子がこんなんじゃ、金の相談なんかしてこないだろう。じっさい兄貴は実家に金送ってるらしいんだよ。もう、金額とか聞けなかったけど」
シロモンモに兄弟がいること自体、初めて聞いたので、西谷はなんともコメントのしようがなかった。
「ごーめん。迷った」
満天卿はだいぶ経ってから、汗だくで階段を上がってきた。
「迷うところ、あります?」シロモンモが笑った。
「普通に逆向きに歩いちゃってさ。無駄に敷地の周りを一周した」
「それはそれは」
「とにかく撮ろう。ちょっと、早く撮ったほうがいいかも。雲が出てきたから」満天卿は日差しの当たるステンドグラスを振り返った。
「まあそう、ここは晴れてるほうがバエるんすよね」
その後の撮影は滞りなく進んだ。ダンスを撮り終え、各階の部屋にも入ってみたが、それほど面白い画は撮れなかった。ホテルの設備自体はほとんど撤去されており、往年の何かを感じさせる痕跡は少ない。目立つのは侵入者達の残したゴミや、落書きばかりだった。
薄暗い一階に引き返して建物を出ると、西谷の気分はなんとなく沈んだ。シロモンモの打ち明けた話がじわじわと効いてくる。それに、色んなものが異様に歪んだこの道をまた戻らなければならないのも、気が重い。
行手に目をやると、緩くカーブした道の先で一瞬何かが光った気がした。目を凝らすが、何もない。車が一台も来そうにない乾いた道路は、片側が雑木林に接しており、もう片側は休耕地と枯れた用水路に面している。
いつの間にか、また虫の声が止んでいた。
「え、あそこ、何か……」満天卿が道路の行手を見て言った。
「ヤバっ。あれ、なに?」シロモンモが言った。
乾いた道路が、ある位置を境に色が変わっていた。境の向こう側は塗りつぶしたように黒く、煮えたぎる鍋の中のように激しく泡立っている。
道の両脇の樹々と下草が縮れ、倒れながらもうもうと煙をあげ出す。その煙の中に四つの、横一列に並んだ大きな目が光ったように見えた。
泡立つ黒い道は通常の乾いた道路を侵食しながら、じりじりとこちらに近付いていた。初めは目を凝らさなければわからない程度だったが、次第にはっきりと速度を持ち、浜に打ち寄せる波先のように、勢いを増して迫ってきた。
「なんで、こんな……」
西谷は道路の先を振り返った。
が、反対側からも全く同じものが迫っていた。
立ちこめる煙が濃く黒くなる。その向こうに光る横一列の四つと四つ、合わせて八つの目が大きくなり、眩しい金色の光が両側から交錯して西谷の視界を覆った。
「こっち!」
他の二人に引っ張られ、廃ホテルの敷地に飛び込んだ。すぐ後ろでアスファルトが捲れ、薮が燻り、金網のフェンスが歪んで軋む音がした。
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