価値の収束(3)

 疲れてふらふらと歩いていた。雨は一定の強さで降り続いている。そろそろ駅に着くはずだったが、見慣れた道が見えてこない。いつの間にか石畳の境内を歩いていて、周りには傘を差した人の波が行き交い、両側には赤い提灯を提げた屋台が並んでいた。


 ふと道の先が開けて、大きな火の焚かれた広場に出た。井桁に組まれた薪がぱちぱちと音を立てて燃える中に、人の顔が次々と投げ込まれていた。ぎょっとして目を凝らすと、どれも本物そっくりの色彩をほどこしたお面だった。道行く人々の顔をそのまま切り取ってきたような老若男女の顔が、火を浴びると一瞬で白くなり、余分な肉が灰となって落ちた。


 焼けた後の白い面は穏やかな無表情で、すっきりと痩せている。美しい二重にバランスよく大きな目、瑞々しい涙袋、通った鼻筋、薄く纏まった小鼻、短い人中、程よく膨らんだ唇、柔らかく上がる口角。

 無数の真っ白な、同じように整った顔が炎の中に整然と並ぶ。

 私はうすら寒くなって目を逸らし、参道へ引き返した。


 雨が止んだようだった。私は渋々、傘を閉じた。平日の昼間のはずなのに、参道はやけに混み合っている。


 台の上に赤や黒の椀が並ぶだけの、簡素な屋台の前で足が止まった。


「いらっしゃい」

 色白の若い男が、闇色の目をこちらに向けた。その顔は整っているというよりも人間離れしていて、マネキンか彫像のように見えた。


「願いごとをどうぞ」男は台の上の赤い椀を一つ取って、私に差し出した。

「え、いえ……特には」

「そう? でも悲しそうだ」

「それは、あの」私はぽたぽたと雫を垂らす傘の先を見下ろした。「目を二重にしたくて、さっき病院で相談してきたんです」

「なるほど。病院でしてもらえるなら、ここで願うまでもないか」

「けど、私は上手くいかないらしいです。糸で留めるだけじゃ駄目で、切らなきゃ二重にならないって」

「そう」男は特に何の感情も無さそうな声で返した。

「不公平ですよね。結局、最初から綺麗な人は、直すにしてもちょこっとで済むんです。五分か十分か、それくらいでパチパチやれば済んで、次の日にはメイクもできる。私みたいなのはそんなのじゃすぐ戻っちゃうんですって。一時間かけて手術して、脂肪を取って、縫って、一週間後に抜糸して、また待って。その間も痛むんだそうです。傷はずっと残るし、料金だって三倍です。お洒落の延長で気軽になんてできないんです」

「なるほど」と男は言った。


 少し沈黙が流れた。


「それなら、願いごとは? 顔を変えたい? それとも整形の費用に、金が欲しいとか? あるいは、顔と関係なく人から好かれるようになりたい、とか?」

「どんな願いでも叶うんですか?」私は聞いた。

「そうかもしれない。相応の代償はあるが」

「二重にするには幾らかかりますか?」

「性格が変わる」と、男は言った。

「今より更に暗くなるってこと? これより下って想像つかないけど……それとも、すごく意地悪になるとか?」

「いや、明るく社交的になるだろう。好奇心が旺盛になって、芯のある価値観を持つようになるだろう」

「それって代償と言うんでしょうか」

 むしろそれは、ご褒美のように思えた。そういう性格になりたいからこそ整形をする人だって、沢山いるだろうに。

「まあ、試してみればわかるよ」男は表情を変えずに言った。


 差し出された赤い椀には、黒っぽい液体が一口ぶんだけ溜まっている。私はまだ半信半疑のまま、ぼんやりとそれを受け取る。


 口に含むと抹茶のような舌触りと、ほのかに甘い味が広がった。





 自分が変わったという実感はほとんど無かった。瞼が二重になったことも、いつの間にかそうなっていただけという気がしたし、性格に関してはまるで違いがわからなかった。ただ、なぜか今まで付き合いのあった人達とは疎遠になり、別な種類の人達に声を掛けられることが増えていった。居酒屋のアルバイトを始めたことも大きかったのかもしれない。他大学の人や社会人と接する機会が急に増えて、自分が今まで育ってきた世界がどういう場所だったかよく見えるようになった。


 ゆうと付き合い始めたきっかけも、バイト先の先輩からの紹介だった。私より一歳上で、大学と学部は同じだが専攻のコースが違った。だから、適度に共通の話題があり、適度に互いの知らない話があった。


 優弥との付き合いは気取ったところがなく、どこまでも平和だった。レンタカーを交代で運転し、SNSで見かけた色んな絶景やレジャースポットを目指したが、たいてい季節を逃していたり、雨が降っていたり、休業日だったり、思った雰囲気と違いすぎたりして、「何しに来たんだろうね」とげらげら笑いながら引き返す羽目になった。

「いいのいいの」が、優弥の口癖だった。「俺らみたいなんはね、どうせ意識高くはなれないんだから。真似事というか、真似したつもりで」

「で、これから二時間かけてまた帰ると?」

「いいのいいの」

「ご飯は?」

「いいのいいの」

「……まあ、途中のサービスエリアでいいか」

「そうそう。あ、ラーメン食いたい」

「サービスエリアのラーメンって不味くない?」

「それがいいのヨ」


 私も優弥も、見た目でモテるタイプではないし、成績は中の中で、もちろんスポーツに打ち込むタイプでもない。無趣味で地味な人間だった。私たちがキャンパス内で二人でいても、まるでカップルに見えないと友人たちから言われた。装いが普段着すぎるし、態度も気が抜けすぎているそうだ。しかし、私も優弥も、それがすごく居心地が良かった。


 いつでも自然体で、本音で話せる相手がいるというだけで、日々の暮らしやすさがまるで違う。大学に入学したばかりの頃、なぜあれほど肩肘を張って何かに怯えながら生きていたのか。今となってはあの頃の日々は悪い夢だったような気がしたし、現在の自分こそが本当の自分自身だと思えた。


 ただ、一つだけ、いや二つだけ、今の私には確実に部分があった。あの日不思議な神社の夢の中で変えてもらった、瞼の形と性格だ。

 優弥の「いいのいいの」が穏やかに私のすべてを肯定するたび、その言葉を必要としていたのは過去の、瞼が一重だった頃の私ではないかという気がした。そしてもし「私」という言葉が私の心の中、性格を指すのだとしたら、あの頃の「私」は報われないまま消え、別人である今の「私」が代わりに幸せを享受しているのかもしれない。


 優弥はもし私の瞼が一重のままでも、今と変わらず「いいのいいの」と受け入れてくれたと思う。しかし、私の性格がもしあの頃のままだったら、彼とこれほど上手くいっていたのだろうか。それだけはどうしても確かめられない。


 何か重要なものを置き忘れてきたような、違和感と心許なさがずっとどこかにある。だからといって、顔と性格を元に戻して欲しいなんて願う気もさらさら無いのだが。

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