価値の収束(1)

 浪人して予備校に通っていた間は、服役でもしているような気分だった。家と予備校を往復して、授業をこなし自習をする、ひたすらそれだけの毎日。周りには、浪人中であろうと好き勝手に遊んでいる者も沢山いたが、私はどうしてもそんな気になれなかった。昔から、複数の気がかりを同時に抱え込むのが苦手だった。


 晴れて大学生になってから、ようやく他のことを考えられるようになった。勉強以外のことで私が真っ先に考えたのは、どうにかして二十歳になる前に恋人を作らなければならないということだった。誰かにそう言われたわけでもないのに、まるでノルマのように皆がして当然のこと、十代のうちに済ませなければ人生の落後者となって、人間としての価値が下がってしまうようなことだと思っていた。すでに私は一浪してその価値にがついているのだから、これ以上周りの者に遅れを取ることは許されないような気がした。


 ノートを見せてほしいと話しかけてきたクラスメートの男子と連絡先を交換し、その週末にデートをした。いしというその男子も一浪していたので、浪人の思い出話でなんとなく話が弾んだ。その後も週末になるたびになんとなく誘い合って、映画を見に行ったり食事に行ったりした。数度目で飲み屋に行き、解散しようとしたところをもう一軒と引き止められて、日付が回ってもさらに引き止められて、この流れで断るのも不自然な気がしたので、そのままそういう関係になった。そういったことは三度ほどあった。


『大学でだれかいいひといないの、って親に聞かれちゃってさ』

 私はある日の授業の合間に、どうにも退屈になって彼にメッセージを送った。

『それで小石君のことを言っていいのか迷っちゃった。私たちって付き合ってるってことでいいのかな』


 返事が来るまでにかなり時間がかかった。

『いや、親とかはまだいいんじゃない?』


 でも……と私は文字を打ちかけたが、その『で』に反応したアプリが『デスヨネ~!』と書かれたスタンプを候補に出してきたので、そっちでもいいやと思ってそれを送った。


 それ以降は特に連絡が無く、デートの誘いもないまま日々が過ぎた。

 親に言うほどではない、という彼の言い分が、それでも関係は続けたいということなのか、そもそも正式に付き合うつもりはないということなのか、私には判断が付かなかった。そこを突き詰めて聞くのも何か角が立つ気がして、聞けずにいた。

 二週間後くらいに、小石が別な女子と親密そうに連れ添って学食前を横切っていくのを見かけて、私はこっそりと溜息をついた。悲しさは全くなく、むしろ肩の荷が下りたようでかなり嬉しかった。


 翌月のプチ同窓会で会った高校の友人にそれを話したら、「何それ、ヤリ捨てじゃん!」と怒っていたけれども。


 美容クリニックに興味を持ったのも、思えばそのプチ同窓会が最初のきっかけだった。脱毛と肌質改善を始めたという人が二人いて、会の後半はその二人が質問攻めにあっていた。お酒が入っていたのではっきりした記憶が無いのだが、確かどちらかが「学生の間に二重整形もするつもりだ」と言っていた気がした。わざわざそんなこと言ってしまうんだな、と驚いた。


「だってさ、今だってアイプチしてメイクして毎日作ってるわけで、それだって詐欺は詐欺じゃん? というか、そっちの方が嘘じゃん? むしろさ」


 ルカだったか、ミユ子だったか、あるいはその二人の言い分が混ざって聞こえていたのかもしれないが、酔った大声が飲み屋の大部屋に響き渡っていたのを覚えている。

「自分のためにやるんだから。顔を盛るのは自分のためよ。そうでしょう。今やらなくていつやるのってね」


 その同窓会のことはしばらく忘れていた。前期末の試験が立て込んで、忙しかったからだ。改めて思い出したのは夏休みの後半、ポストに入っていた美容クリニックのダイレクトメールを見たときだ。


 学割、の文字が青空をバックに大きく浮かんでいた。その右下に、補足があることを示す米印が付いている。広告の下端に記された補足事項の字は小さくて、読む気がしなかった。

 裏面には、白く明るい部屋で女性スタッフが出迎えるイメージとともに、初回カウンセリング無料、アンケート回答で電子マネー千円分プレゼント、と書かれていた。


 行くだけで千円もらえるなら悪くはないな、と思った。実際にはそこまでの交通費や、外出先での飲食代を考えると大したプラスにはならないが、少なくとも損はしないわけだし。




 駅前通りの角にある小さなビルのエレベータに乗った途端、ここに来て損はしないと思い込んでいた今朝までの自分をぶん殴りたくなった。


 狭いエレベータは天井からの真っ白な光でくまなく照らされ、奥側の大きな鏡がカゴを二倍の広さに見せていた。


 鏡の中央には、ちぐはぐな格好の女が立っていた。二回洗濯したらさっそく襟ぐりがよれてきたフリルシャツに、微妙にサイズの合わないパンツ。体型を隠すという言い訳で羽織ったカーディガンは生地がヘタって、袖に毛玉が出始めている。買ったときは真っ白だったはずの夏用スニーカーは、いつの間にか日焼けして黄ばんでいる。


 髪は、かろうじて寝癖がないというだけのボブ。面長の子は髪を下ろしたほうが小顔に見えるからね、と、子供の頃に近所の美容院で言われたことをずっと律儀に守っている。


 最近整えるのをサボっていた眉は、輪郭がだいぶ汚い。いつ見ても眠たそうな、不満げな自分の顔がこちらを見返している。しかし今、気になるのは一重の瞼でも芋くさい小鼻でもなく、ベースクリームで隠し切れない毛穴の黒ずみと、頬の肌荒れだった。


 こんなところに来る前に、他にすべき努力がありすぎる。日々、美を保つために最大限の努力と試行錯誤を続け、それでもまだ納得の行かなかった人達がここには来るわけで。そういう人を毎日何十人、何百人と診ているはずの医者やスタッフ達の目に、自分はどう映るのだろうか。きっと、プレゼントの千円が目当てのふざけた乞食が来たと思われるだろう。そして半分くらいはその印象が事実だと思う。


 回れ右して帰ろうと思ったが、エレベータのドアが開くと目の前が受付だった。

「いらっしゃいませ。ご予約の方でしょうか?」

 ロングヘアの、お手本のような美人が、緩く弧を描くカウンターの向こうで微笑みながら言った。

「あの、二時からカウンセリングの……」

 私は身も心もすっかり縮こまって、まるで不審者になったような気分でモゴモゴと告げた。


 どうにかしてさり気なく待合室から逃亡できないかと考えたが、どこにも逃げ道はなかった。私は出荷先の決まった家畜のように、とてもスムーズにカウンセリングルームへ通された。

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