宵の籠絡(中)

「いったたた! 放して!」

 顔の左側に傷のある男が、浅黒い肌の男に胸倉を掴まれ、半ば吊り上げられていた。


 両側に屋台の並ぶ参道を、途切れなく様々な参拝者が通り過ぎる。何処からか響く太鼓の音と祭囃子、雑踏の騒めきが辺りを包んでいる。簡素な屋台の前で起きた小競り合いを気に留める者はいなかった。


「なんで、あれを、開けるんだよ」はんしょうは一言ごとに拳に力を込めながら詰め寄った。

「ごめんて!」締め上げられたクジラは傷のない顔の右半分だけを歪めた。「お客さんから聞かれたから、ちょっと気になって。あんな飛び出すと思わないし!」

「あれを開ける奴がいるなんてこっちも思わねえよ」

 汎鐘は大きく溜息を吐き、店番をしている少年がじっとこちらを見ているのに気付くと、渋々手を離した。


 甚平を着たおかっぱ頭の少年は大きな木箱の上に腰掛け、膝の上に真っ黒な小さい壺を抱えていた。見た目は七、八歳ほどだが、その年齢に不釣り合いな無表情で、不穏な光を湛えた目を男たちに向けていた。


水玉みずたまくん、ごめんて」クジラは少年を振り返り、顔の右半分で笑いかけた。「大丈夫だから、すぐカガミさんに追ってもらったから……」

「今回のこれが失敗したら僕はもう一人でやる」少年は不意に口を開き、鋭い声を上げた。

「でもそんな」

「あんた達にとってはどうか知らないけど。僕はこれが一度目や二度目じゃないんだ。もう我慢ならない――」

「まあ、そう言うな」汎鐘が取りなすように片手を上げた。「まだ次の春までは、時間がある」

「その言い草も何度目だよ」少年は忌々しげに呟き、黒い壺を抱え込むように俯いた。


 昼間からちらついていた雪は次第に強まり、空は暗さを増していた。頭上を押さえ付ける重たい蓋のような雲が、ゆっくりと無音で形を変え続ける。


 ふと人の波が途切れ、彫像のように真っ白な整った顔の男が現れた。両手にを引き連れている。男が両腕を胸の前に引き上げると、バサバサと何かが激しく羽ばたくような音とともに不定形の影が焔のように揺れた。


「カガミ」壺を抱えていた少年は顔を上げた。「全部捕まえたの?」

「二つ、取り逃した」

 カガミは少年の手元に向かってじりじりと腕を差し出し、羽ばたきながら激しくうねる影を押し込んだ。

 壺の口を覆う木の蓋が封を破って浮き上がりそうになり、少年は素早く両手で押さえつけた。

 影はしばらく抵抗したが、不定形な羽の先が壺の縁に触れた途端、煙が吸い込まれるようにつるりと飲まれて見えなくなった。


 辺りは一瞬静かになり、まもなく何事も無かったかのように参道の騒めきが戻ってきた。


「もう嫌だ」少年は駄々をこねるような調子で首を振った。

「逃げちゃった二つは、もう見つからないの?」クジラが曖昧な笑みを顔の右半分に浮かべて、誰にともなく聞いた。

「山に入られてしまった。深追いするより、これから取る分を増やした方が確実だ」カガミは淡々と言った。

「増やしたらどうなるの? 色んな人から、願い事の代償を集めて……?」

「別な願いの代償に使う」ずっと黙っていた汎鐘が低い声で言った。

「そうなの? その別な願いって何?」クジラが無邪気に聞き返し、

「だからこいつを入れたくないのに!」少年は壺を抱えて座ったまま両脚を振り、踵を木箱にガンガンと打ち付けた。「記憶を失った時点で役に立たないだろ。下手に半分だけ残したりしないで、搾るだけ搾り取ってにしちゃえば良かったんだよ!」

「水玉くん、なんか怖いこと言ってない?」クジラは首を傾げた。


「四人で始めたことだ。時間はまだある」カガミは彫像のような無表情を崩さず言った。


「……それに、願いのために大きな代償を払う客は幾らでもいるからな」汎鐘は参道を行き交う人の流れを眺めながら、低く呟いた。

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