無味の供食(6)
石畳の緩やかな坂を上っていた。両脇に祭りの屋台が並び、遠雷のような太鼓の音が何処からか響いている。平日の昼間なのに、狭い参道は老若男女で溢れて、先が見通せなかった。
吐く息が白い。傘をさすほどではないが、小雪がちらついている。家の炬燵が恋しい、と私はぼんやり思った。医者から家事禁止令を解かれ、今月からはできる限り運動をするように言われている。週数的にはいつ生まれても良い時期で、経過はひとまず順調だった。
自分の足元が見えない。体内の大半の部分は赤ん坊のための場所になっていて、今や食事もそれほど腹に入らないし、深呼吸もできない。限界まで膨らんだ風船にでもなったような気分だ。
色とりどりの風車が並んだ台の脇を過ぎる。その先は剣玉、独楽、ダルマ落とし。お手玉とおはじき。今の子供達も、こんな昔ながらのおもちゃで遊ぶのだろうか。袋詰めされた綿飴の隣には、アニメキャラクターのお面が並ぶ。どの面も眼の部分に穴が空いていて、空虚な表情をしている。
「久しぶり。かな?」
急に屋台の中から声を掛けられて、私は顔を上げた。
つるりとした青白い顔の男がこちらを見ていた。左の目尻から口元にかけての傷に見覚えがあった。
あのときと同じく、簡素な台の上に赤や黒の椀が幾つも並んでいた。
頭に靄がかかったようにぼんやりとする。それでも、自分がなぜここにいるか、何をしに来たかははっきりとわかっていた。
「お願いしたことを、取り消して欲しいんですが」と、私は言った。
「ああ……どんな願いだっけ」男は曖昧に笑んだ。
二つの灰色の瞳が私に向く。興味深げに私をとらえる右眼と、義眼らしい不動の左眼が等分に私を見る。
「あの、食べ物がなんでも美味しくなるように……美味しさだけを感じるように、してもらったんです」
「ああ、なるほど、なるほど」男は頷いた。
「元に戻してもらえますか。もちろん、必要なら代償は払います」
「ああ、うん、元にねえ……まあね、どうかな」
男はちらりと横を見た。
台の端にぽつりと置き忘れたように、小ぶりな壺が乗っていた。
あらゆる光を吸い込んだかのように、真っ黒い。古びた木の板で蓋をされ、拳大のつるりとした重石が乗っていた。
男はおもむろに歩み寄り、重石を退けて木の蓋をそっと浮かせた。
身を屈めて壺の口に顔を近づけ、わずかに持ち上げた蓋の下を覗きこむ。
突如、壺の縁から溢れ出した闇が不定形の生き物のようにうねり、無数の腕を広げた。うねりは重苦しい霧となり、分厚い毛布をかぶせるように辺りを包みこむ。
私は思わず息を止め、逃げ場を探して後ずさった。
「や、これは駄目。ごめん」男は蓋を戻し、素早く重石を乗せた。
急に視界が戻り、何かの錯覚だったかのように黒い霧は消えた。
「取り消すってわけにはいかないみたいだ。まだこの中に残っていれば、返せるかなと思ったんだけどね」
男は呆然としている私に向かって言った。
「……それなら、もう一つ新たにお願いはできますか」
「うん、いいよ」男は首を傾げた。「……たぶんね」
「味の不味さを感じられるようにして欲しいんです。ええと、つまり、美味しいものは美味しく、不味いものは不味いと感じるように、普通の味覚に」
「そう。いいよ」男は頷いた。
「代償は何になりますか?」
「特にあなたの代償ってわけでもないけど。この後、誰かから味覚の一部を奪って、あなたに付け替える」
「誰かから奪う……」
「それしかないよね。人の身体の機能は、無から作り出すことは難しいから」
「そう……ですか」
元はと言えば私の勝手な願いで失ったものを、他人から横取りして埋め合わせるというのも罪な話だ。しかし、今の私には他人を犠牲にしてでも守らなければならない命がある。妊娠中だけではない。産後は母乳で育てるつもりだから、私の食べるものが子供の口にするものになるだろうし、離乳食が始まれば私が作ることになるだろう。その後もずっと、少なくとも子供に十分な判断力が付くまでの間は、子供の食べる物は親が選ばなければならない。私の味覚が正常かどうかで、子供の未来が大きく変わってしまう。
「帰り道の、そうだね、電車にしようかな」男は言った。「電車で乗り合わせた誰かにしよう。誰かから味覚をちょっとだけ貰う。別に丸ごと全部取る必要はない、『美味しさ』だけのことだし。元から味覚が敏感な人なら、それが少しだけ鈍るくらいのこと。どうかな?」
「なら、それでお願いします」と私は言った。
男は黙って、台の上の赤い椀をひとつ取って差し出した。
黒く、ところどころに銀色が見え隠れする重そうな液体が、一口ぶんだけ溜まっている。
「これ、カフェインとかアルコールは入ってますか?」私は口をつける前に、一応聞いた。
「そういうこの世のものは入ってないよ」と男は言った。
そうか、この世のものではないのか。それなら、水すら入っていないのかも。薬でも毒でもなく、そもそも飲み物ですらない。
私は椀の縁に口をつけ、一気に傾けた。
初めての育児は、言いようもないほどのカオスで、事前に取り決めていた育休や復帰の予定は何もかもが甘い夢物語として崩れ去った。結構な難産になって産後の肥立ちが悪かったこともあり、私の退職はほぼ迷う余地もなく決定した。サポートする夫の疲弊も激しく、育休の取得と閑職への異動を上司から提案された夫はしばらく真剣に悩んでいた。
密かに楽しみにしていた離乳食作りも、結局二週間ほどで私は挫折した。息子のリクは何を作っても口の周りに付けて遊ぶばかりで、唯一気に入って食べるのは市販のインスタント離乳食の「ほうれん草味」だけだった。私は「ほうれん草味」の素を箱買いしてレンジの上に積み上げた。
「俺に似ちゃったんだねえ」夫は苦笑した。
「いやー、偏食なら、私の遺伝でしょ」
「そうでもないんだよ。俺も小学生くらいまでは、給食のおかずが何も食べられなかったんだよ。子供の時は酷かったんだ」
「へえ。意外だなあ」
「だから子供のうちは気にしなくていいんだ。大人になれば直るよ」
「私は今もあんまり直ってないけどね……」
私の味覚はあれ以来、すっかり元に戻っていた。日々の食事は、美味しいときもあれば、美味しくないときもある。ただ、母乳として吸い取られていくので、味がどうであろうと相当食べる必要があった。乳腺が詰まらないように、揚げ物とジャンクフードは避ける。アルコールやカフェインは母乳に出てきてしまうので、引き続き飲めない。
あまりにも忙しく気がかりが尽きない暮らしの中で、自分の舌が信用できないという弱みを事前に無くしておいたのは正解だったはずだ。ただ、その代償として私はもっと大きな気がかりを抱えることになった。
私の今の味覚は、あの日の帰りに居合わせた誰かから奪い取ったものだ。夢か現か定かでない参拝の、帰りの電車の中で。
電車で乗り合わせた誰かが、あの日、味覚の一部を理不尽に失った。そのときの光景も、実際にそれがあったのかどうかさえ、私にはっきりとした記憶はなかったが、ひとつだけ確実なことがある。
あの時の帰りの電車に私が居たのなら、そこには私の息子も乗り合わせていたのだ。今の私の舌が感じる美味しさは、あのとき臨月だった私の腹の中の息子から掠め取ったものではないと言い切れるだろうか。離乳食を一種類しか食べないのも、固形の食べ物に興味を向けようとしないのも、夕方になるたびに母乳すら嫌がって手の付けようもなく泣き叫ぶのも……全てが、どこの乳児にもよくあること、あるいは遺伝とか個性とか、何かそういった取るに足らない悩みで、いつか自然と解消していくもの、ただそれだけと言い切れるだろうか。
考えてもキリがない。思い悩んでも状況は変わらないし、私が気にやむこと自体が息子にとって更に悪い影響を与えてしまうかもしれない。だから、もう忘れよう。あの日見たものはただの夢で、それに、最終的に味覚を奪われたのは偶然居合わせた赤の他人で……いや、それ自体も幻だ。私の味覚がおかしくなったり急に戻ったりしたのは、ホルモンバランスのせいであって、産前産後の女性にはありがちなことで。だからこれは、全てが私の思い違いで、迷信なのだ。
火をつけたように泣き続ける息子を抱き上げ、言いしれぬ不安が湧き起こるたび、私は繰り返し自分に言い聞かせた。
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