無味の供食(5)

 まだ体型にも変化がなく、たまに微かな胎動がわかる程度の頃から、夜中に身体の火照りや違和感に悩まされるようになった。母が弟を妊娠したときの様子をわりと覚えていたので、大体どういうことが起きるのかは知っているつもりだったが、いざ自分がなってみるとさっぱりわからない。マタニティ誌や「これ一冊で」なんとかというような本を買ってみたが、どこかふわふわした説明ばかりで、自分の感じる症状と本の解説がどれくらい合っているのか判断しづらかった。


 何度目かの健診で、「このままだと切迫早産になってしまう」と医者が脅してきた。


 仕事をどうすれば良いでしょうか、と聞いたら、「さあ」と返された。


「さあ、じゃなくてですね……もう完全に産休に入った方がいいのか、それとも今だけセーブして安定してくれば、もうちょっとは働けるのか、職場の方にも報告しないといけなくて」


 初老の男性医師はすっとぼけた口調でもう一度「さあ」と言い、「とにかくできるだけ動かない方が良いです」

「家事とかはどうでしょう」

「家事だろうと何だろうと赤ちゃんにとっては同じですよ」

「ずっと寝てろと?」

「熱が出たとき寝てるのと同じことです」


 そりゃ貴方の家族は熱が出るたびに充分寝るんでしょう、それができる環境にいるから。思わず反発したくなったが、そんなことを言ってみてもしょうがない。


 早産のリスクがあるらしいと知ると、夫の方が過剰に気にして、渋る私を無理やり産休に入らせた。


 家事を禁止されてしまったので、私のしていた掃除や洗濯は夫の担当になり、食事はスーパーの定期宅配で惣菜やレトルト食品を運んでもらうことになった。

 平日から家でぐうたらするという生活に違和感を覚えたのも、最初の三日だけだった。スマホがあれば何時間でも過ぎていく。SNSと配信サービスを交互に開き、たまに「出産準備」や「妊娠何ヶ月」等で検索をかけたり、チャットAIに答えさせたりした。気をつけることや買うべき物が、山のようにあった。全部に完璧に従っていたらキリがない。しかし、どの程度が最低限なのかと調べてみても、判然としない。


 私にとって、特に悩ましいのは「食べてはいけないもの」のリストだった。

 私の舌は相変わらず良い方向にポンコツで、食事はひたすらに美味しかった。幸運なことに私は吐き気も出にくい体質らしく、がっついた後で吐いてしまうのではという心配もせずに済んだ。

 ただそうなると、「間違って良くないものを口にしないか」という不安は余計に増してくる。


「昆布は良くないらしいよ」

 ある晩、夫が帰ってくるなり第一声でそう言った。

「知ってるよ」と私は言った。

 昆布に含まれるヨウ素が、摂りすぎると胎児に良くないらしい。

「けどさ、わりと毎日この味噌汁飲んでるでしょ?」

 夫は冷蔵庫の脇の段ボールをガサガサと漁った。お湯を注ぐだけでできるカップスープや味噌汁があれこれ入っていた。夫はその中から味噌汁のカップを取り出し、裏面の原材料表示を見た。

「ほら、昆布だしを使っているよ。だから、減らした方がいいよ。というか残りは俺が飲むから。きいちゃんはスープだけにしなさい」

「だしでも駄目なの? そこまで気にすることなのかな」

 昆布だしの成分のことまで言い出すなら、そもそも市販のカップスープの塩分や添加物だって避けた方が良いはずだが。

「だってさ、避けられないものは仕方ないよ。でも一応、避けられるものは何でも控えておいた方が良いだろう。後から、やっぱりやめときゃ良かった、とか思うよりはさ」

「まあ、それはそう」私は渋々頷いた。「けど、こんなにあるなんて思わなかったな……自分の親なんか、お酒以外は何でも飲み食いしてた気がするけど」


 どちらかというと、私よりも夫が神経を尖らせているようだった。性格的なものなのか、それとも男親はそもそも身体的な実感がないぶん、そうなりがちなのか。


 私が間違ってブランデー入りのケーキを食べたときの反応は、夫と私の母とで対照的だった。


 そもそも、ケーキは母が駅前で買ってきたものだった。ショートケーキ、タルト、モンブランなどそれぞれ違う種類で六つ。食べるのは私と夫と母だけなのに、なぜそんなに買ってきたのかと聞いたら「でも色々選べた方がいいじゃない」とのこと。「それに妊婦さんは栄養つけなきゃ」とも言った。母の世代の人間にとっては、栄養とは単純にカロリーを指すのだろう。


 平日の昼間だったので母は私を軽く見舞ってすぐ帰るつもりだったらしいが、たまたま夫も仕事が休みだった。私からのメールを見て急いで買い物から戻ってきた夫は、私の食べかけのケーキを見るなり「それ、アルコール入ってない?」と叫んだ。

「大したことないわよ」と母は笑った。

「焼いたから、アルコールは飛んでるでしょ?」と私は言った。

「違うって。焼いた後に入れるんだよ」夫は溜息をついて皿ごと取り上げた。しっとりしたパウンドケーキの真ん中あたりを千切って、口に入れる。「めちゃくちゃ酒の味するよ。これ駄目だって」

「ちょっとくらいは大丈夫よ。昔は一杯までは誤差の範囲とか言ってねえ」母は、嘘か本当かわからないことを言って笑った。

「勘弁してくれよ……」夫は母の手前、口調は弱めだったが、かなり本気で怒っていた。「だいたい、食べてて違和感とか無いわけ? 先輩のとこの嫁さんなんか、妊娠中は味のついたもの一切食べなかったって……舌が敏感になって食べられなくなったって言ってたけど」


 味覚のことを言われると、私は黙るしかなかった。私の舌は、ある面では味覚を失っているのと同じことだった。そして、今やそのことで不都合をこうむるのは私一人ではなくなっていた。

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