無味の供食(3)
「ごめんごめん」と言いながら夫が帰ってきた。
近頃はほとんど、これが「ただいま」の代わりになっている。夫の部署は商品の開発とリリースに関わっていて、最近忙しいようだ。私のいるところはリリース後の運用に関わるので、数ヶ月後に今度は私が忙しくなるはずだ。
「鶏肉がさ、味付き二枚になっちゃった」帰る途中で寄ったらしいスーパーの袋を下ろして、夫は言った。「お肉屋さん、いつもの人いなくてさ。味付き一枚と普通の一枚って言ったつもりだったんだけど」
行きつけのスーパーの精肉コーナーで出している、ソテー用のタレに漬け込んだモモ肉が私は苦手だった。にんにくが強いし、味が辛いのだ。
「きいちゃんのは、ソーセージ焼こうか」
「いや、同じのでいいよ」と私は言った。
「ほんと? ごめんねえ。今度、味なしの買ってきてリベンジするから」
「いや別に、そこまでのこだわりは無いって」
洗濯物と寝室の掃除を終えて戻ると、夕食は大体できあがっていた。夫は日に日に手際が良くなっていく。味付きモモ肉のソテー、キャベツとピーマンの炒め物、パックのご飯、インスタント味噌汁。
「……美味しい」
食べ始めてすぐに、思わず口に出していた。
「え、ほんと?」夫は意外そうに聞き返した。「いつもと同じ味の気がするけど」
「なんか、美味しく感じる。私の感じ方が変わったのかも」
「そんなことある? まあでも、良かった」
電車の中で見たあの「夢」のせいなのだろうか。舌で感じる味そのものは同じはずなのに、そこに不思議な美味しさが加わっている。野菜炒めも、すっかり食べ飽きたパックのご飯と味噌汁も、まるで別物だ。夫に不審がられないように控えめな言い方に留めたが、口の中に唾がどんどん湧いてきて、箸が止まらなくなりそうだった。
一日の疲れが軽くなっていく気がする。このありがたみを忘れないように、あと、太らないように気を付けなければ、と思った。
パックのご飯。インスタントのお吸い物。プチトマト。納豆と肉そぼろ。
あの日から悩みがひとつ消えた。というより、楽しみがひとつ増えた。
何を食べても美味しいと、食事が楽しみになる。好き嫌いが無い人間はもしかすると、日に三度ずつ楽しみがあるのかも。それだけで生きやすさというか、人生の幸福度がまったく違う気がする。
ご飯の半分に肉そぼろを乗せて掻き込む。いつもの味付けと少し違うが、これも美味しい。
「これの味付け、何を使ったの?」
向かいの夫に聞くと、夫は不思議そうな顔で自分のぶんを一口食べて、「うわ、ごめん」と言った。
「いや、すごく」
美味しいよ、と付け加えようとしたが、夫がただならぬ勢いで私のご飯パックを奪ったので黙った。
夫は顔の前に近づけてにおいを確かめ、「この肉ダメだったわ」と言った。
「ダメ?」
「悪くなってた……一応明日までのはずなんだけどなあ」
「え、気付かなかった」
「マジで? え、食べちゃった?」
「半分以上は」私は自分の手元にある空の小鉢を示した。肉そぼろは全部、ご飯の上に移動しており、最初の三口でだいぶ無くなっていた。
「ええ……早食い過ぎんだろ。というかにおい気にならなかったの」
「いつもと味違うなとは思ったけど」
「できるなら吐き出したほうがいいと思うけど……」
「いや無理無理。吐くのは無理。ちょっとくらい大丈夫でしょ……私、胃腸は丈夫だから」
そぼろご飯の残りは捨てて、ご飯の新しいパックを温め直して続きを食べたが、その後はなんだか食が進まなかった。いつも通り何もかも美味しいのに、口の中のものを飲み下すのに躊躇してしまう。夫の食べる様子を窺う限りでは、プチトマトと納豆に異常は無いようだったが。
その夜は遅くまで腹痛に悩まされた。夫は申し訳なさそうに何度も謝ったが、どう考えてもこれは私の舌のせいだ。
そのとき初めて、あの日の祭りの屋台の「夢」は単なる夢ではなく、そこで私が交わした契約も只事ではないのかもしれないという、不吉な実感が湧いてきた。
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