無味の供食(2)

 帰りの電車で運良く座れた。


 目の前に立った若い女性の、機能性の悪そうなサンダルと星型チャームのアンクレットを見ながら、ぼんやりと車内放送を聞いていた。


「エ、ホームとの間に、隙間がございます。エ、足元、落とし物にご注意……」


 眠くて仕方がない。今日は会議と打ち合わせ続きで自分の仕事がまったく進まなかった。成果の少ない日に限って、何故か体力の消耗も激しい。

 意識はあるつもりなのに、身体が動く気がしない。自分の身体が砂袋になったかのような、不快で重苦しい疲れ。


 帰ったら今日の分の洗濯、掃除。食事は夫に任せるとして、風呂を沸かして、明日の朝出すゴミを纏めて……。

 一人暮らしのときは、こんな日は何もせず、食事もお菓子とコンビニ惣菜などにして寝てしまっていた。独身のままの方が楽だった気がする。そう考えそうになるたびに、心の中で打ち消して振り払う。


 生涯独身で生きていけるほど、私は強くない。いつかは結婚したかったし、その「いつか」は中年になってからでは遅い。何歳でどんな生活をしようと個人の自由、多様性だといくら世間で言われても、本音と建前は違う。避けられるはずの偏見や見下しを馬鹿正直に浴びながら、割の合わない人生など送りたくはない。



 夢の中で、祭りの人混みを歩いていた。


 雨上がりの湿気と人いきれが混じり合う。石畳の狭い道の両脇に屋台が並び、鉄板のじゅうじゅうと鳴る音が聞こえる。串焼き。唐揚げ。コロッケ。じゃがバター。モツ煮込み。天ぷら、すき焼き、鰻の蒲焼、ステーキ……


「お腹すいてます?」屋台の男に声を掛けられた。


 白い台に赤や黒の椀が並んだ、簡素な屋台だった。茶髪の若い男が立ち、私を見つめていた。


 青白くつるりとした顔で、少し非対称だった。左の目尻から口元にかけて亀裂のような傷がある。左眼は義眼のようで、薄い灰色の瞳はまったく動かなかった。


「まあ、夕飯まだなので」私は曖昧に頷いた。

「はは、じゃあうちに用事はないか」

「ここは何の店なんですか?」と私は聞いた。


 台の上に並ぶ椀の中には、暗い色の液体が一口分だけ溜まっている。


 男はそのうちのひとつを無造作に取り、私に差し出した。

「飲めば願いが叶う。何か願ってみる?」

「うーん……」


 今一番欲しいもの、を考えようとして、真っ先に浮かんだのが衣がサクサクの豚カツだった。あとは、ロースの生姜焼き。竜田揚げ、青椒肉絲、エビフライ……家の夕食が毎日そういうものだったら。


 でも、こってりしたものばかりになれば身体には良くないし、夫のやり方に文句を言いたいわけではない。

 結局は、私の感じ方の問題だ。どんなメニューでも満足感を持って美味しく食べられるように、私の舌が変わればそれで済むのに。


「……おいくらですか?」

「お金はいらないよ。ただ、願いに見合った代償をいただく。願いは何?」

「あの……何を食べても美味しく感じるように、ならないかなって」

「ああ、そうね、いいんじゃない」男は軽い感じで頷いた。

「けど、代償が何かヤバいものなら、やめときます」

「特に、無いんじゃないかな、その願いなら」男は非対称な顔の右側にだけ柔らかい笑みを浮かべた。

「無いんですか」

「美味しさしか感じないって、十分な代償だと思うけどね。たまにいるんだよね、願い自体が代償になる人。まあ、それ自体、良いこともあれば悪いこともあるという、それだけ」

「はあ」

 確かに、何でも美味く感じると太るかもしれない。そこは気を付けなければ。


 差し出された赤い椀には、鈍い銀色の液体が溜まっていた。私はそれを飲んだ。味はほとんど無く、抹茶のような舌触りが一瞬だけあった。



 目を開けると、私は電車の座席に座っていた。


 両脇を固めていた乗客がいなくなり、座席に少し余裕ができている。立っている者もかなりまばらで、車内の空気は先ほどより涼しい。


 居眠りをして乗り過ごしたことに気付き、思わず溜息が出た。肩にのし掛かる疲れが、一段と増すのを感じた。

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