怪の消息(4)

 みねは始め、親会社のほうの秘書課に派遣で来ていた。その後、私の会社で事務の人手が足りなくなり、こちらに移ってもらったのだ。歳は私と同じくらいで、母親と二人暮らし。性格も仕事の進め方も淡々としており、派手さや嫌味がなかった。


 私はとにかく忙しかったから、少ない指示でスムーズに雑務を任せられる峰美は心強かった。背中を預けるような心地よさがあって、妻に対するのとはまた違った一体感を覚えた。


 取引先とのトラブルでいつになく残業が長引いた日が、偶然にも峰美の誕生日だった。雨が降り込めて寒々しい夜だった。特別なことは何も無いです、平日だし、と笑って帰ろうとする峰美を思わず引き留めていた。


 行きつけのイタリアンの店で夕食を奢り、そのまま近くのバーに移動して飲んだ。峰美は酒が入るとよく喋り、普段の淡々とした仕事ぶりとは違った一面が見られて新鮮だった。最近観た映画や駅前の店、母親とのやり取り、友達がくれた旅行の土産物の話……取り留めのない話ばかりだが、なぜか心地良くずっと聞いていられた。そして、私の近頃の生活に欠けていたものはこういう時間だったと強く実感した。


 妻の顔を見る日はどんどん減っていった。深夜に帰宅すると妻は先に寝ており、冷蔵庫の常備菜を温めて食べてほしいといったメモが食卓に置いてあった。朝も、私がトーストを食べる横で妻は台所仕事や洗濯物に走り回っているから、ほとんど会話は無かった。リョウが家を出てから妻は昼間パートに出るようになったので、朝のうちに済ませたい家事が多いらしかった。


 悪いことをしている自覚はほとんどなかった。家にいる間の自分と仕事中の自分は別物で、時間帯によってそれぞれの服を着たり脱いだりするだけだ。食事へ行ったり飲みに行ったり、一夜を過ごしたりしても、私はずっと彼女の前で「仕事中の自分」という制服を着ていた。それに、峰美のほうも、そんな雰囲気だった。私たちはお互いに自分の見せたい部分を見せ合うだけで、装いの内側にある生身の自分は誰とも触れていない。峰美と一緒にいる間は家のことを忘れられた。


 それに、息子のリョウを失うのではという恐怖も、彼女といる間は和らいだ。峰美は根っからのリアリストで、運とか縁起とか因果とかいったものをまるきり信じていなかった。私が何かを「引き寄せた」話や、昔見た示唆的な夢の話をすると、峰美はいつも意外そうな目をして「なんですかそれ?」とか、「初めて聞きました」と言った。彼女は私の話を興味深げに聞いてくれたが、全部聞き終わっても結局、「へえ……」としか言わなかった。


「そういう不思議な体験って、誰でもひとつくらい、ないか?」

 私が聞くと峰美は、うーんと首を傾げてから、「あったとしても、私は気づかなかったんでしょうね」と言って笑った。



 妻には結局、バレなかったと思っている。もしかしたら薄々思うことはあったのかもしれないが、決定的なことが起こる前に、峰美との交際は半年足らずで終わった。


 彼女がいつまでこれを続けるつもりだったのかはわからない。あの日、酔って口を滑らせなかったらもう少しは続いたのかもしれない。でも、遅かれ早かれその日が来ていただろうことは明らかだった。


 いい具合に夜景の見える個室付きの居酒屋で、刺身の舟盛りを前にして、私はふと言った。


「そういえば峰美の『峰美』は、名字だよな。ちょっと名前っぽいから普通に呼んでいたけど、もしかして下の名前で呼んだ方が……?」

「いえ、仕事中に呼び間違うと嫌ですから」峰美はお猪口を両手で持ち上げて、微笑んだ。「今後も峰美で結構です。私も『常務』か『小柴さん』と呼びますから」

「はあ、いつまで常務でいられるやら、ね……あれ、下の名前は朋子だよね」

「ええ」

「昔、付き合った子もトモコという名前だったなあ。漢字は忘れたけど――」私は酔いが回ってふわふわした頭で、何の考えもなく言った。


 それから、峰美が見たことのない表情になって黙り込んだのを見て、不安になった。


「ほんとに、忘れてるんですね」峰美はくしゃっとした顔で眉を下げた。

「え、それはどういう……」

「私は、忘れたことなかったですよ」峰美は押さえつけるような、少し低い声で言った。


 肩に力が入り、上半身をきつくテーブルに当てて乗り出している。黒い、深い感情をたたえた目が私を貫くように見据えていた。


「小柴君と付き合ったこと、忘れたことなかった。初めての彼氏だったし、短かったけど沢山思い出があったし……」

「でも、おれ、峰美なんていう知り合いは」

「私は旧姓佐藤です」

「……でも、独身で実家暮らしって」

「離婚して出戻ったの。名字は戻さなかっただけ。職場で呼び名が変わるのが煩わしかったから」

 結婚する時より離婚する時の方が名字の選択肢は緩いんですよ、と、峰美はいつもの落ち着いた声と表情に戻って言った。


「小柴君て、昔から全然変わってないのね。いい意味でも悪い意味でも。でも私はそういうところに、救われたんです。昔の傷を忘れて恋愛をやり直せた。私ね、最初は復讐しようと思っていた。だからわざと近づいたの。でも、あなたが私のことをまったく思い出さなくて、ただ普通に私と大人の恋愛をしてくれて、新しい思い出を作ってくれたから……もういいかな、もういいんだな、と思えて、過去を乗り越えることができたんです。あなたとの一度目の恋愛は、子供ができて堕して、ひどくて辛くて、病んでしまって、その後ずっと苦しかったけど」


「え」私は醤油皿に無意識に伸ばした手をひっかけて、派手にひっくり返した。


「あなたと再会して、もう一度何も知らないあなたと恋をして、楽しかった。あの頃も今も、あなたは何も悪気がなくて、それが良いところで、悪いところでもあるんだけど、全部ひっくるめてね。私の心が報われて、救われた気がしたんです。だから、ありがとうございました」


「でも、おれは」私は急激に酔いが回ってグラグラと揺れるような頭痛を感じた。「そんなこと知らない、自然消滅したと思ってて、本当に心当たりもないし」

「そうですよ。私、何も言わずに身を引いたから」

「どうして。なぜ言ってくれなかった?」

「私だって学生だったんですよ。どうしたらいいか分からなくて親に相談して、親が何もかも手続きして、病院に連れて行かれて。私は処置のショックで病んでしまったし、親だって言いたいことは沢山あったでしょうけど、あの時の私の様子を見て『彼氏に話をつけに行け』なんて言えなかったと思いますよ。話したところで何か変わるわけでもないんですから。私は学業を優先したいから産むつもりはなかったし、よくある事故っていう、それだけです」


 小皿を戻して、零したものを拭かなければ。熱に浮かされたように必死に考えるが、視界の焦点が定まらない。学生のとき数ヶ月付き合っただけの相手。なんとなく疎遠になって、自然消滅して、名前も顔も忘れてしまった程度の。けれども、年齢と時系列を考えれば、それが私があのとき支払いを承諾した「最初に授かる命」だったのは間違いない。


 リョウではなかった。ヒロも。

 私の成功の代償は、あのとき間も無く払い終わっていたのだ。私を長年脅かした影は幻で、二人の息子と妻を苦しめてきた不幸は紛れもなく、私自身の弱さが招いたものに過ぎなかった。


「飲みすぎちゃったので、帰りますね」峰美はテーブルに金を置いてすっと立ち上がった。

 いつの間に身支度を終えていたのか、煙が晴れるように素早く自然な退出で、気づくと一人きりで酒の続きを飲んでいた。


 まるで、初めから一人で飲みながら、長い悪い夢を見ていたかのように。


 峰美はその後出勤せず、連休明けには退職していた。派遣元にそれとなく探りを入れたが、すでに派遣の登録自体無くなっていると言われ、代わりの秘書がすぐに派遣されてきた。新しい秘書も峰美に劣らず有能でよく働いたから、私が不満を言える点は全くなかった。少なくとも、仕事上は。



 暫くぶりに日が高いうちに帰宅した。

 妻は意外そうな目をして掃除機を掛ける手を止め、コーヒーと洋菓子を出してきた。


須野すのさんが分けてくれたの、このバウムクーヘン。最近人気なんですって」

「ああ……須野さんって、お隣の人だっけ?」私はぼんやりと返し、妻の呆れた目を見て「ごめん」と付け加えた。

「須野さんは裏のご夫婦ね。隣は山口さん。反対隣は山崎さん」

「ああ、どっちも山、山、だったな……」


 職場の人間や取引先の相手なら忘れることはない。人の顔を覚えるのは苦手だが、名前はしっかりと頭に入る。だから、昔の彼女や隣近所の配置を覚えていないのは、単純に私の興味がまったく向いていないからなのだ。


 ヒロのことも。たぶん、無意識のうちに沢山取りこぼして忘れていて、妻に小言をいわれても煩い雑音くらいに感じていたような気がする。


 支払った以上のものを失ってしまっていた。私自身の人間的な欠陥のせいで。


「ねえ、来月くらいに話そうと思ってたんだけどね」向かい側のソファでコーヒーを飲みながら、妻がぽつりと言った。「せっかく早く帰ってきてもらったから、こんな機会も無いし、今話させてほしいの」

「なに?」私はどきりとしてカップをおろした。

「この家を引き払って、そろそろ終の住処を決めたいかな、と思って」

「え?」浮気のことを言われるのではと身構えていたので、私は少しの間ぼんやりした。


「ここは車が無いと暮らせないから、歳取ってからは不便でしょう。リョウも独り立ちしたことだし、私たち二人ならここまで広くなくてもいいし。駅前あたりの便利なところで、使いでのいいマンションがいいかなって。あなたもそのほうが、通勤も楽でしょう」


 妻は、彼女にしてはかなり饒舌で、長くあれこれと説明した。この家の残りのローンを片付けて、マンションを買い直すとするとどういう返済スケジュールになるか。使える制度やローンの種類、そのメリット、デメリット。


 妻なりに長いこと考えて情報収集もしたのだろう。そして、情報を集める中で次第に乗り気になっていった部分もあるのかもしれない。


 しかし妻の表情は、彼女自身も気づいていないのだろうが、伏目がちで浮かない顔だった。


「動けるうちに動いたほうがいいと思うの、身も心も余裕があるうちにね」妻はそう言って私を見た。

「いや……まだ、今は」私は様々な思いが湧き上がってきてせめぎ合うのを感じた。「ここを引き払っては駄目だ。ヒロが戻ってきたときに私たちがここを離れてしまっていたら、二度と会えなくなってしまう。ヒロの帰りを待たないと」


 妻はびっくりした顔で私を見つめた。


 私は思わず立ち上がっていた。テーブルを回り込み妻のそばへ行く。


 自分が何をしようとしているかわからないまま、身体が自然と動いていた。妻の隣に座りその肩をしっかりと抱き寄せた。


「まだ諦めては駄目だ。ヒロは必ず戻ってくる。いや……必ず戻らせるよ」

 どんな代償を支払ってでも、と、私は自分の胸の内に呟いていた。




 長い間立ち寄ることのなかった、大学最寄りの駅で降りた。向かい合う二つのホームの間に線路がひとつずつ走るだけの、小さく簡素な駅だ。

 改札からは出ず、反対側のホームへ上がる。昔から変わらないデザインの待合用ベンチに腰掛け、もう一度あの場所へ、と念じた。


 私は神社の境内を歩いていた。

 石畳の細い道を、老若男女の参拝客が行き交う。

 重い灰色の曇り空のせいか、昼とも夕方ともつかない妙な景色だ。道の両脇に並ぶ屋台に掲げられた提灯が、やけに赤っぽく浮いて見えた。


 マネキンのように青白く無表情な男は、あの時と変わらない姿でそこにいた。


 男の前には白い長机があり、赤や黒の椀が並んでいた。

「何か?」

 私がその前に立つと、男は怪訝そうに見つめた。

「願いを叶えてほしい。もう一度だけ」

「どんな」と、男は聞いた。

「おれの三番目の子供を返してほしい。次男のヒロだ。ヒロが帰ってくるならなんでもする、……おれの命でも支払う」

 妻や他の子供の命は払えないが、と私は付け加えた。


「ああ……あのときの子か」男は値踏みするように私の顔を眺めてから、頷いた。「悪いけどね、その願いは受けられない」

「どうしてだ」

「前にも言った。君自身が叶って当然だと思うこと、自らの力で叶えようと確信している願いについては、受けられないよ。ここはそういう店ではないから」


 今日はもう帰りなさい。君が支払うべきものは何もない。

 男はそう言って微かに頷いた。


 私は呆然としながら、思わず口を開いていた。

「じゃあ、それなら――」



 気づくと私は、駅の湿ったベンチに座り込み、両手を祈るように握りしめて固く目を閉じていた。




 当てどもなく街を彷徨い、真夜中に帰宅した。

 妻は起きていた。特に連絡を入れなかったのに、何かを察していたのかもしれない。


 私は向かい側のソファに座り、妻に今までのことを打ち明けた。


 若いときに異様な場所で交わした不気味な願いごとと約束、そのせいでリョウを失うのではないかと怯え続けたこと、職場で峰美と出会い、過去の因縁を告げられたこと……この数ヶ月、峰美と関係を持っていたことだけは話さなかった。自分の身勝手かもしれないとは思ったが、妻が知らなくても良いことまで口にしてこれ以上傷つけたくはなかった。


「そう」妻は、ほとんど驚く様子もなく黙って聞き、すべて聞き終わるとゆっくり頷いた。「あなたはほんとに、昔からいつも、何かを引き寄せて、持っているよね。けど、引き寄せたものを持っていられるのも、その人の器というか才能なんだと思う」

 それが良いものであっても悪いものであってもね、と妻は付け加えた。


 妻の反応は昔からそうだった。峰美のように、何ですかそれ、とか、知らない、とは言わなかった。


「あなたは本来仕事ができる人だから、仕事ができるようになるという運命を自分のものにしたのよ。私が同じ願いごとをしたって出世した気がしないもの。そもそもそんなお願いをしないけど」


 ヒロを見捨てないでくれてありがとう、と妻は俯いたまま小さく言った。私は黙って頷いた。

 大丈夫だ。ヒロは必ず取り戻せる。私たちの自らの努力で、きっと。


 私が最後に、自分の命を代償に頼み込んだのことを、妻に話すつもりはなかった。それが成就したかどうかは私には確かめられないし、確かめる資格もない。


 私は近いうちに急に死ぬのかもしれない。それでも、これを引き寄せて選び取ったのは他ならぬ私自身なのだ。


 運命の日が来るのなら、来れば良い。


 街中を何時間彷徨っても消えなかった恐れが不思議と和らいでいくのを感じながら、私は溜息をつき、ソファの背に深く身体を沈めた。

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