怪の消息(2)

 長男のリョウが三つのとき、妻は次男を身籠った。つわりが重く思うように動けない妻の代わりに、休みの日は私がリョウを外に連れ出した。三つにもなると子供はとても活発で、道路に飛び出したり、手摺によじ登って落ちたり、停車中のトラックの下に潜ろうとしたりと、一瞬も目が離せなかった。リョウが危ないことをするたびに、私は肝が冷える思いをした。


 また、幼稚園に行き始めたせいなのか、頻繁に風邪をもらってきて熱を出した。リョウは妻に似て気管支が弱く、痰の絡んだ嫌な音の咳を繰り返し、夜中に真っ青になって胸を掻きむしることもあった。そんなとき、冷静に痰を取り除き、夜間救急に電話をするのは身重の妻で、私はおろおろするばかりだった。冷や汗が滝のように出て、あのとき見た黒い鳥居やおかしな飲み物、マネキンのような男が言った不気味な約束が繰り返し頭に浮かんだ。


 仕事は怖いほどに順調だった。私が担当した二つ目のプロジェクトは大きな成功を収め、その部門だけを独立させて子会社を設立することになった。私はその取締役についた。社外に発信する仕事も増え、業界誌の依頼でちょっとしたコラムの連載も引き受けた。寄稿したものがある程度溜まると、これに加筆する形で本を出すことになり、私の名前と顔写真入りの表紙が本屋の片隅に並んだ。実家の両親は箱一杯ぶん買って親戚や近所に配ったらしい。街中で急に見知らぬ若者に声を掛けられ、握手やサインを求められることもあった。


 築き上げたものが大きくなればなるほど、こんなはずはない、これは自分の本来の人生ではない、という不安が強くなった。大きな家に住み、美味いものを食べ、高い車に妻子を乗せ、贅沢な外食や旅行に連れ出した。仕事は変わらず忙しかったが、その合間を縫ってリョウに出来る限りの贅沢をさせた。リョウの活発な笑顔や笑い声は、私の真っ黒に打ちひしがれた心に差し込む一筋の希望の光だった。しかしその光は明日にも永久に消えるかもしれない、あまりにも頼りなく弱い光だった。もしそうなったとき自分がどうなってしまうのか、想像するのも恐ろしく、そのことが頭に浮かびそうになるだけで私は全身が冷たくなるのを感じた。


 リョウが小学校の高学年になったとき、登山クラブに入りたいと言い出した。地域の有志が主催する小中学生向けの活動で、県境の山でトレッキングやキャンプをしたり、冬はスキーやスノーボードをして、自然に親しむのだといった。


「山なんて、駄目だ」私は思わず声を荒げて叫んでいた。

 飲みかけていたビールのコップを倒してしまい、妻が慌てて台拭きを取りに行った。


「何。なんで?」風呂からあがったところだったリョウは、首をタオルで擦りながら憮然とした目を向けた。


「山は危ない」

「そんなことないよ、今――」

「口ごたえするな、駄目なものは駄目だ」

 リョウの希望を叶えてやれないことに心が痛んだが、山に行かせてしまえばきっと息子は何ものかに引き込まれて、二度と帰って来ないような気がした。


 どんなに息子に恨まれようと、死なせるよりはずっとマシに決まっている。自分が正しいことをしているはずだという確信が熱を帯びて頭の中をぐるぐる駆け回り、他に何も考えられなくなった。


「いいじゃないのよ」妻がテーブルの上と、床にも少し溢れたビールを拭きながら、小さい声で言った。「せっかく興味を持ってるんだし、体験だけでも行かせてあげたら」

「駄目だ、この話はもう終わり。他のことにしなさい。もっと、ピアノとか、芸術とか、プログラミングとか……何かあるだろう。塾を増やしてもいい。とにかく山は駄目だ」


 妻も息子も、腑に落ちない顔で黙り込んでしまった。


 私は行き場のない惨めさで一杯になり、全てを話してしまいたくなった。飲んでいたものがビールでなく焼酎だったら、私はたぶん、酔った勢いに任せて口を滑らせていただろう。しかしそのときは、我が子に向かって残酷な予言をしないだけの理性が残っていた。


 その頃から、リョウは私に対して次第によそよそしくなり、妻も疲れた顔をしている日が増えていった。

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