甲斐の攻略(4)

 水面に打ち付ける雨音のように拍手がホールいっぱいに広がった。

 楽器を抱えて慣れないお辞儀をしながら、これから弾くんだっけ、それとも弾き終えたんだっけ、と一瞬迷いそうになった。

 

 もう終わったんだ。ステージから捌けないと。帰りはこっちで合っていたっけ?

 右も左もわからない幼児になったような気分で、ふらふらと楽屋に戻った。


「お疲れ様でした。めっちゃ良かったです」

 花束や差し入れの積まれたテーブルの向こうで革山かわやまが立ち上がり、にこにこしながら胸の前で小さく拍手をした。彼女は私より一つ前に出番が終わっていた。

「袖のところで聞いてたんですよ。凄かったです」

「ありがとうございます……なんか緊張して、全部飛んじゃって」

「いえいえ、完璧でしたよ」

「お客さん去年より多くありませんか?」

「ね、それは思いました。幼児クラスが今年結構増えたみたいですね。それでお子さんひとりにつき父兄が四、五人来たりするみたいで」

「ああ……お祖父ちゃんお祖母ちゃんも来るんですね」


 曲の出来不出来よりも、観客の多さに気を呑まれてしまい、演奏中は何も考えられなかった。

 いつになく猛練習を積んで迎えたはずの本番で、結局こんな初歩的なところで躓いた。私みたいな人間は、やはり根本的に器が足りないらしい。


 この一ヶ月は普段の倍は練習をしたと思う。あの日駅のホームで見た夢を、私はそこまで本気にはしていなかったが、少なくとも嘘にはすまいと思った。できる限りの時間を練習に費やした。実際、自分でも驚くほど集中が続くようになり、カラオケルームで漫然とスマホを弄って時間を浪費することは無くなった。


 努力をし尽くした、何かをやり遂げた、という充足感があったのは、先ほどの本番直前だったかもしれない。終わった今となっては、なんの実感も感慨もない。


 発表会の出番は年齢が若い順なので、革山と私が終わるとほぼ終盤だった。去年から夫婦で習い始めたふたりが短い合奏をして、生徒の部は終わり。トリはどう先生だった。


 楽屋の天井近くに吊られたモニターに、ステージの様子が映っていた。小さめだが音も入っていた。


 画面はステージの端から端までを固定で映しているので、中央のピアノも、その前に立つ目堂先生もひどく小さい。それでも、その姿はやはり誰よりも存在感があった。楽器を弾いているだけなのに、ダンスを見せられているような躍動感がある。

 ここじゃなくて客席に戻って聴いた方が良かったな、と思った。

 革山のほうを振り返ると、彼女はモニターに目が釘付けになったまま、まるで何かを祈るように胸の前で両手を握り、立ち尽くしていた。


 今、革山に話しかけても、たぶんまったく彼女の耳には入らないだろう。なんなら私がこのまま楽屋を荒らして狼藉の限りを尽くして出て行ったところで、全然気付かないかもしれない。

 モニターを見上げる革山の目は少し潤んでいた。


 曲は長かった。私には長く感じられた。一つの山場を迎えて曲が途切れ、まばらな拍手が上がりかけたが、すぐに二楽章が始まった。

 今からでも客席に移動すれば残りを充分に堪能できそうだったが、革山はもう、そんなことも思いつかないほど夢中になっているようだ。


 自分の楽器をケースにしまって、そっと楽屋を出た。



 ロビーに出ると、バイオリン部門の採点結果が既に貼り出されていた。トップが私の名前、次点が革山、その下に六名の名前が並ぶ。私と革山の名前の前には、オケ入りの印に赤い造花が貼ってあった。

 私はスマホを取り出して撮影した。こんなものを残しても後で嫌気がさすかもしれないと思ったが、ストレージの肥やしにしておくくらいはタダだと思い直す。これはステージ攻略の証、トロフィーみたいなものだ。


 目堂先生の演奏を聴かずに帰る客は思ったよりも多かった。着飾った子供を取り巻く父兄達がぞろぞろと、雑談や記念撮影を挟みながらホールを出て行く。彼らにとっては、子供の晴れ姿を見るためのイベントに過ぎず、他の奏者の演奏なんて、というより自分達の子供の演奏ですら、どうでも良いおまけなのかもしれない。

 仮にもプロの端くれである目堂先生の演奏をタダ同然で聴けるなんて、贅沢な話なのに。聴く耳を持たない人間は想像以上に沢山いる。そして私も、これからはそのひとりになるのだろう。



 翌週、目堂先生に電話した。オーケストラへの入団を辞退してレッスンも休止したいと告げると、先生の反応はまるで予想していたかのようにあっさりとしていた。

「まあ、あなたの中では一区切りついたって感じかな。発表会とても良かったよ」

 すみません、と私は口籠もりながら言った。

「そう深刻になることはないって。音楽なんてね、どこにでも転がってるし、いつでもまた始められるものだからね。また一から始めたくなったら、いつでも連絡ちょうだい」

 再開するじゃなくて、一から始める、という言い方になるのが、やはりその道の人らしいなと思った。


 革山にはひどく引き留められた。ショートメッセージのやり取りだけで済ませるつもりが、向こうから電話がかかってきて、取らないわけにもいかず長々と話すことになった。


「仕事が忙しくて」と初めは言い訳してみたが、だんだん誤魔化しきれなくなり、本当のことを言うしかなくなった。「実は、モチベーションがもう無いんです」

「ええっ。こんなに上手いのに?」革山は素っ頓狂な声をあげた。

「発表会でやり切った感があって……何かを攻略した気分というか。燃え尽き症候群みたいなことかもしれないけど、最近は何を聴いても心が動かなくて、つまり、感動がないんですよね。音楽を続ける理由が見いだせなくなって……私、なんだか、サーちゃんと似たようなこと言ってますね」

 自分で言いながら、すっと背筋が冷えた。

 まさか、あの「神童」獅子ししやまサチも、夢の神社で何かと引き換えに音楽の才を手に入れたのだろうか。


 奇妙な想像に私の心はざわついた。


「というより、目堂先生みたいなこと言ってますよ」革山は苦笑をまじえた声で言った。

「え?」

「先生も、出番が一個終わるたびに、このステージ攻略、って思うんだそうです。ゲームをクリアしていく感じだって……」


 知らなかった。私について「表現より攻略をしたいタイプ」と指摘したのは、先生自身のことでもあったのか。


「何を聴いても感動できないっていうのも、言ってましたよ。先生くらいになるとそうなのかもしれませんけど、あのテクニックはどう、とか、自分ならこう弾く、とか、そういう考え事ばかりになって、かえって頭が冷えてしまうんだそうです。先生ってあんなに情熱的な感じに演奏されるのに、実際は情熱的なていを装っているだけで、弾いてる瞬間も心は冷え切ってるとおっしゃってました」

 革山はそれをひとつのプロの証のように思っているようで、その口調からは無邪気な尊敬が感じられた。


 私は胸騒ぎが収まらなかった。

 目堂先生の奏者としての技術は、本当に先生自身の実力で得たものなのだろうか。


 というより、それを言い出すなら、世の中のどれほどの人が自分の本当の実力だけで暮らしているのだろう。


 いや、これ以上は考えるのをやめよう。発表会の思い出語りを続ける革山の声を聞きながら、私は自分に言い聞かせた。


 少なくとも私は望みを叶え、トロフィーを得た。音楽に打ち込んだ甲斐があったと、今ならはっきり言える。

 どういう手段を使おうと、私自身の努力で勝ち得たものには違いないのだから。

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