甲斐の攻略(3)
小学校のクラブ活動では、けん玉を二年やった。中学では吹奏楽部に入って、オーボエを。高校では美術部だった。
何をしても、人並みくらいにはできた。目覚ましい成果とまではいかないが、下手くそでもない。あんたは器用貧乏だわね、と母にはいつも笑われた。たぶん親としては、わりと誉めているつもりの言葉だったのだろう。実際、何をしても人よりちょっとだけいい成績をつける私は、両親の自慢の種になりやすかった。子供の頃は特にそうだったし、子供のうちは自分でもそれで満足できた。
焦りが生まれ出したのは、大学に入った頃からだ。このままだと私は何一つ持たない大人になる。全力を尽くした結果がそれなら、別にそれでも良いのかもしれない。しかし私は、いまだ何一つ「全力を尽くした」と言えるものがない。
だからバイオリンにだけは出来る限り真剣に取り組んだ。大学で初心者から始めるならチェロかヴィオラがいいよ、という先輩の助言も突っぱね、花形のバイオリンに拘った。サークルの練習の他に個人レッスンにも通い、引退後もレッスンは継続した。そのときの先生に、就職先の街でも楽器を続けられるようにと、目堂先生を紹介してもらったのだ。
プロになろうなどと考えたことはないし、人前で弾いて目立ちたいと思ったこともない。流行りの動画配信も、撮影や編集の手間の方がハードルが高そうで気が向かなかった。そもそも、どこにいても私よりすぐ上に、もっと上手い人はいた。
サークルではついに第一奏者にはなれなかったし、この教室に来てからはもっとずっと上手い人達が平然と「一介のアマチュア」として弾いているのを目の前で見せられてきた。
私は、ただ、どんな小さな囲いの中でも良いから「一位」になってみたいだけなのに。
たとえ外の世界、本当の音楽の業界ではまるっきり歯が立たないど素人に過ぎなくても、一度くらい「この中ではあなたが一位」と言われてみたい。それだけ言われたらすっきりして辞められる。その後の平凡な人生を、一度は一位になったこともある凡人として粛々と生きていけるはずだ。
今のままでは、ほんの少しの報いもない。
「ホームとの間に隙間がございます。エ、足元、落とし物にご注意ください」
減速する電車内に運転士のアナウンスが響いた。
確かに、この駅は妙に隙間が大きかった。
ドアが開く。雨音と湿気のこもったにおいが出迎える。電車の床とホームの間の暗い隙間を跨ぎながら、ここから落ちる人って年に何人くらいいるんだろう、と考えた。
気づくと小雨の中を人混みに流されて歩いていた。傘を差し忘れていたな、と思い、鞄から赤い折り畳み傘を取り出す。
石畳の緩やかな上り坂を進む。真っ黒な鳥居をくぐると、その先で道は狭まり、混雑も増した。
不思議と疑問は湧いてこなかった。
参道の両脇には屋台が並んでいる。夜の闇に提灯や裸電球が灯され、その光の当たる場所だけが不規則に浮かび上がって見える。綿飴、煎餅、的当て、千本くじ、お面、クレープ、かき氷……
人の流れはやがて参道を逸れて、中央に大きな火の焚かれた広場に行き着いた。
藁を縛ったような飾りや竹細工が積まれて、ぱちぱちと爆ぜる炎の中でゆっくりと崩れていく。絵本やアルバム、子供向けの教材と思われるような冊子も多い。
単なるゴミや資源として処分しづらいようなものをここで集めているんだろうな、と思った。
額に入った賞状、盾、トロフィーの類も沢山あった。金杯や立像、手形、メダル。
人の流れは焚火をぐるりと周り、元の石畳の道に戻る。先ほど上ってきた道を引き返して下っていく。
今日は家に食材がほとんどないから、帰る前にコンビニに寄らなければ、とぼんやり考えた。
「どうですか?」
不意に、屋台の男が明るい声を投げかけた。
陶器のようにつるりとした顔の、若い男だった。メイクで上手く塗りつぶしているが、左の目尻から口元にかけて亀裂のような傷があった。左右で目の色が違う。左眼だけ灰色で、ガラス玉のように正気が無い。
真っ白な長机に赤や黒の椀が並ぶだけの、店かどうかもよくわからない屋台だった。
「願いを言って」若者は顔の右側だけ動かして微笑んだ。
親切そうな人に見えるが、どうにも顔の動きのバランスが悪くて不安を覚える。
「願いを叶えてくれるんです?」私は聞いた。
「飲めば叶うよ」若者は赤い椀をひとつ取って、私に差し出した。
椀の底には黒と銀が混じったような、不思議な輝きをたたえる液体が少しだけ入っていた。
願いは叶ってしまった。今年の発表会で二位以内に入って、オケ入りを果たすこと。それはとても遠い目標に思えたが、獅子山サチの脱落によって、思いがけず自動的に叶った。目堂先生のあの口ぶりと表情からすると、今年のオケ入りが私と革山で確定するのはほぼ間違いない。
けれど、本当の望みはそうではなかった。私は一位になりたかった。神童と呼ばれる獅子山サチは規格外の相手だったから、自然と私の中で除外されていた。あの子は幼児の時から親ぐるみで英才教育を受けていて、比較の対象にならない。でも、革山をはじめとする他の生徒達は違う。私はその中で一位になりたかった。
「楽器が上手くなりたいんです」と、私は言った。
「そう。どれくらい?」若者は赤い椀を差し出したまま聞いた。
教室内で一番。
でも、それを神頼みで実現したのでは意味が無い。
「練習が苦にならないようになりたいんです。途中でサボりたくならないように」
「ストイックな願いだねー。すごくいいよ」若者は元気良く頷いた。「代わりに君は、音楽を聴く才能を失う。つまり、観客としての能力はなくなる。それでも良い?」
「はあ……」よくわからないまま、ぼんやりと頷いた。
観客としての能力が、元から自分にあるとは思えなかった。音楽そのものの良し悪しなんて、私にはそこまでわからない。わかっていたらここまで伸び悩むことも無かったはずだ。
赤い椀を受け取り、中身を口に含んだ。抹茶のようなさらさらとした舌触りで、ほんのりと甘い。
「あ、耳自体が聞こえなくなるなんてことは無いですよね?」私はふと不安になって聞いた。
「いや、それは無いよ。それなら先にそう言う」若者は笑った。「ていうか、飲んでからそんなこと聞く人も珍しいね」
「急に気になったので……」
「まあ、飲んでから取り消しは効かないからね。けど、君の本当の望みなんだし、どう転んでも後悔はないでしょ」
それはそうだ。私の望みがどんなに卑近で、音楽の本質とはかけ離れたものかなんて、自分が一番よくわかっている。
目を開けると、ホームが見えた。私は待合用のベンチに座り込んでいた。
電車を乗り降りする客が捌けて、ホームは静まっている。夕方から続いていた小雨が本降りになって、暗い線路を濡らし続けていた。
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