甲斐の攻略(2)

独奏部カデンツァはもっと歌っていいと思うけどねえ、ここはソロの見せ場だから。伴奏も付かないし。もっと、私が主役、って顔で弾いてほしい。自分の表現したいものを全面に押し出して」

 どう先生は遠目には男に見えるくらいの、短髪で痩せた女性だった。フレームの細い小さめの眼鏡を掛けていて、いつもよくわからない柄の薄手のシャツとズボンを纏っている。こうしてレッスン中に話している限りでは、存在感の薄い人間に見えるが、ステージで楽器を持つときだけは怖いような威圧感がある。


「表現したいもの……が、ない場合は」私は苦笑いしながら聞いた。

「うーん。なくても、あるていで」

「体、ですか」

「そう、お客さんは、要は朝澤さんが間違えないかどうか見張っているわけじゃなくて、どんなものを聞かせてくれるんだろ、と期待して聞いているわけでね。まるっきりロボットみたいに、楽譜通りに完璧に弾いたところで、はあそうですか、ってなるでしょう。もっと何か、プラスアルファで、ハートから湧き出てくるものがね。もし無くても、ある体で、何かこういう」

 目堂先生は右手を指揮者のように振って空中に波のようなものを描いた。


 抑揚が少ない、楽譜通りすぎる、というのは常に先生から言われることだった。私にとっては、その「楽譜通り」に漕ぎ着けるまでが精一杯で、とてもそれ以上何かを付け加える余裕がない。


「というか、表現したいものがないっていう人、珍しいなあ」目堂先生は笑った。「朝澤さんくらいだよそんなこと言うの」

「そうなんでしょうか」

「確かに朝澤さんって、弾きたいというより攻略したいみたいな感じがあるからね。曲が出来上がるとそのステージクリアで、また次のステージ行くか、みたいな」

 確かにそうだな、と腑に落ちると同時に、それ以外に何があるんだろうと思った。楽器を始めてからこのかた、譜面をいかに攻略して間違えずに弾くか、しか考えたことがない。そして、周りもみんなそうだと思っていた。


「入って、準備始めてていいよ」目堂先生は教室の戸を開け、待合室の方に声を掛けた。

 レッスンの終了時間が迫っていた。


 革山かわやまがパステルピンクの楽器ケースを背負って入って来た。梅雨の湿気とは無縁そうな、ふわふわしたブラウスとスカート。

 彼女が聞いている前でカデンツァの練習をするのは気が重かった。ハートから湧き出る何か、が何なのかまるでわからない。本来は即興のソロパートのはずなのに、どう弾くべきかしっかりと楽譜に書いてある。だから結局は、自由に自己表現をしている体で弾け、という台本でしかなくて、私はそれを必死にこなしてやり遂げることしか考えられない。


「かなりいいと思う。この調子で本番まで仕上げていきましょう」

 目堂先生にそう言われたが、ひどく消化不良な気分だった。あるいは、革山の目があるから余計にそう感じるのかもしれない。


「隣の部屋、今日は閉まってるんですね」革山が楽器の準備を終えて立ちながら、目堂先生に聞いた。

 ショッピングセンターの一画にあるこの音楽教室は、防音室が二つある。土曜日のこの時間帯だと、大抵は例の「神童」と呼ばれる獅子ししやまサチが、斉藤先生のレッスンを受けに来ているはずだ。


「ああ、サーちゃんね」目堂先生は意味ありげに眉を少し寄せた。「今、休業中なんだよ」

「休業?」

「そう。音楽をやる意味が見出せなくなった、とのことで」

「ええー」革山が素っ頓狂な声を上げた。「なんだか、高尚な悩みですね」

「高尚なんだかありがちなんだか……」目堂先生は軽く首を振った。「まあ若い人が罹るはしかだよね。早いうちに罹っといたほうが軽く済むもんだから」

「え、だって今年、受験でしょう?」革山は聞き返した。

「そうよ。でもあの調子じゃ、音大はまず無さそう。浪人するにしても一年で蹴りが付けばいいけどね」目堂先生は他人事のように笑った。


「けど、じゃあ、発表会は……」私は思わず聞いた。

 気になるのは獅子山サチの進退よりも、毎年恒例で行なわれているバイオリン部門の採点と表彰だった。そこで上位を取った二名のみ、目堂先生たちが運営に関わっている私設オーケストラに入団することができる。市内のアマチュアオケの中では唯一、厳格なオーディションがあるオケだ。


 去年、私は四位だった。

 あと少し頑張れば行けるのかも、という欲が出て、私はこの一年、必死で練習量を増やした。


「そう、発表会も、たぶんサーちゃんは辞退ね。そうすると今年のMVPはあなたたち、どちらかかもしれない」

 目堂先生は私と革山を交互に見て笑った。

「なんだかプレッシャーですね」革山は苦笑する。

「けど、サーちゃんは、今年のオケ入り確定って聞いてましたけど……」私は聞かずにいられなかった。

「まあ、無いでしょうね。本人が音楽そのものへのモチベーション失ってるから」

「じゃあもしかしたら二人揃って入団できるかも」革山は爪先からぴょん、と飛び上がりそうな姿勢で喜んだ。


 私は喜ぶどころではなく、言葉を失ってぼんやりと目堂先生を見た。たぶん、呆然とした目になっていたはずだ。


 なんということだろう。

 何もしていないのに、願いが叶ってしまった。

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