甲斐の攻略(1)

 十八時ぴったりに職場を飛び出してバスに乗った。この時間帯は道路が混むから、一本乗り遅れただけでもとんでもない時間のロスになる。今日は今のところ順調。バスに乗り込んでからスマホで時刻を確認し、私は安堵の息を吐き出した。

 生温い夕方の空気に弱めの雨が降り注ぎ、窓の向こうに見える景色は滲んで歪んで見えた。不快感が増す天気だった。


 駅前で降りると、湿気のこもったぬるい空気がむわっと出迎えた。思わず咳き込みそうになる。

 ロッカーから楽器と楽譜立てを取り出し、向かいのビルのカラオケ店へ飛び込んだ。ナイトフリーパック、楽器練習用、ドリンク無し。すっかり顔を覚えてしまった眼鏡の店員から伝票を受け取り、私は狭い廊下の突き当たりのボックスに入った。


 折りたたみ式の楽譜立てを広げて、譜面を置く。三方に広がる金属の脚がソファとテーブルの脚に引っ掛かって、収まりが悪かった。私はテーブルを押しやってスペースを開けた。


 それから楽器ケースを開ける。チャックを全開し、蓋を開けると、弦のピンと張った焦茶色の小さな楽器が現れる。


 バイオリンなんて高いんでしょう、とか、お嬢様が習うイメージ、などと誰かに話すたびに言われるが、現実はそうでもない。私が弾き始めたのは大学でサークルに入ってからで、楽器は先輩のお下がりのを一万で譲ってもらった。もともと二万で買った物だからタダでもいいよ、と言われたのを、さすがに気が引けるので半額は受け取ってもらったのだ。その楽器で数年弾いて、卒業する直前くらいに今の楽器に買い替えた。バイト代を貯めて、十万ちょっとだ。確かにそれは、当時の私にとってはなかなか高かったが。


 譜面に散らばる音符と記号と数字、英字の羅列は、疲れている日は芋虫の這った跡のように見える。もしくは、芋虫そのものに見える。譜面は元から印刷されていたあれこれの他に、後から鉛筆で書き足した運指と運弓、「ここで楽器を上げる」といった指示、追加の強弱記号などが並ぶ。書き込みは、増えることはあっても減ることはない。


 とりあえず今の課題曲を通しで弾いた。前半部はほぼ同じことを三度繰り返すから、ここばかり上手くなる。


 朝澤さんはねえ、真面目だからね。前半ばかり上手くなっちゃうから、練習のときは後半も繰り返し記号があると思ってやろうか。


 どう先生はそう言って後半部に「三度繰り返す」の記号を書き足し、それをすぐ「四度繰り返す」に書き直した。鉛筆でぐちゃっと塗りつぶされた3の字が、まだ楽譜に残っていた。


 やっぱり4にしておこ。書いてあるとついつい、その通りにしたくなるでしょ。


「そんなわけあるかい」思い出しただけでイラッとして、私は思わず口に出して突っ込んだ。


 目堂先生の意図はわかる。もっと練習しろってことだ。単純な話なのだ。才能だのセンスだの関係ない。私達みたいなど素人に圧倒的に欠けているのは、練習量だ。

 けど実際には、仕事だってあるわけで。朝から晩まで音楽のことばかり考えていられるわけではない。


 再度、通しで弾く。後半部の繰り返しは、二回までにした。それから間違えやすいフレーズをピックアップして指練習をする。遅め、早め、付点、逆付点、三連符。指の回し方と弓の返しを、身体に叩き込む。考えなくても自然と動くように。でも、元からこんな単純作業の繰り返しが苦手だ。じゃあ何故私は音楽なんかを趣味にしてるんだろう?


 時間を見るために取り出したスマホで、いつの間にかSNSを開いていた。


 私がフォローしているのはほとんどが漫画やアニメの感想を投稿するアカウントだ。音楽関係は、見ていると病むのでやめた。気晴らしの時間にまで音楽で悩みたくない。でもそういう考えだから、というか、その程度の熱量だから、いつまでもこの程度なのかもしれない。


 音楽が漫画と同じくらい好きだったら、練習も苦にならないのに。

 つまり、もう、私が目指しているものは根本から間違っているんじゃないだろうか。


 先週のレッスンの前に会ったかわやまとの会話が苦く蘇った。革山は私とほぼ同い年らしいが、大学院生で、隔週土曜日でレッスンに来ている。

「今後は一月に一回くらいにしようかと思ってて」と彼女は言った。「先輩にも脅されたんですが、やっぱり修論は早めにしっかりやらないときついみたいで……今年が人生で一番忙しいかもって」

 大学院生が結局何をする人なのか、私にはよくわからない。本人は、大学生を長くやっているだけと説明して笑うが、私の記憶している大学生活は人生で一番暇だった。だからそもそも、大学という言葉の意味が私と彼女では違うのかもしれない。聞いても気まずくなりそうなので、大学名は聞いたことがない。


 そして、目堂先生がぽろっと口にしたことが正しいとすれば、今年の発表会でが決まりそうなのは革山だ。もう一人は別クラスの神童と呼ばれる高校生で決定だから、私の入り込む枠はない。

 つまり、私は「人生で一番忙しい」人の片手間の練習にすら追いついていない、ということになる。


 考え込んでいたら、スマホの操作を間違えて知らない人をフォローしそうになった。慌てて操作をキャンセルして、他におかしな操作をしていないか確認し、もう一度相互フォロワーの近況を確認して……なぜカラオケルームまで来てこんなことをしているんだろう?


 再び楽器を取って譜面に向かったが、身体は冷えてしまっていた。時間だけが溶けるように過ぎ去って、身につけたものは何もない。仕事の疲れも重たく肩にのし掛かっていた。


 楽器専用じゃなくて、歌える部屋にすれば良かったな。電源の入っていないカラオケ用のモニターを見て、溜息が出る。


 こんな気分のまま帰りたくないし、今から何度か弾いたところで足しになる気がしない。貴重な時間と金と体力を割いて来たんだから、何か一つくらい、ここに来た甲斐があって欲しいのに。

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