無為の跳躍(2)
どこかの神社の石畳の道を、延々と歩かされていた。ざわつく人混みは皆、同じ方向へ進んでいる。遠くからどろどろと、雷鳴のようなものが聞こえる。星の見えない黒い夜空に、屋台の掲げる提灯や裸電球がぼうっと浮かんで見えた。
商品や小道具がこれでもかと前に迫り出した屋台の合間に、赤や黒の椀を並べただけの簡素な屋台があった。
浅黒い肌の、目付きの鋭い男が立って、通り過ぎていく参拝客を監視するように睨んでいた。
「ふん……くだらん」
その屋台の前を通りかかる瞬間、男が低く呟いたのが聞こえた。
思わず立ち止まってじっと見返してしまった。
「なんだ?」男は暗い目をこちらに向けた。
シャツを肘まで捲っていて、変な模様か文字のような刺青が見えていた。
「おれに言った? くだらんって」
「さあ。言ったかな」男は興味が無さそうに少しだけ首を傾げた。
「言ったかな、ってなんだよ……今言ったばかりだろ」
「くだらん願いを抱えた奴なんて山ほどいる。お前のもくだらないな。でもまあ、いいんじゃないのか、そういうのでも」
男は探るような目で見据えながら、赤い椀を取って差し出した。
重たい黒い液が一口ぶんほど溜まっており、揺するときらきらした銀の粉が混じっているのが見えた。
「飲めば願いが叶う」と男は言った。
「おれの願いを知ってるの?」
「遠く離れたものを自在に掴み取る能力、だな。違うか」
「合ってるけど……なんであんたが知ってるの?」
「ここはそういう場所だからな」男は石畳の道をぞろぞろと進んでいく人々の列を見やった。
椀を持ち上げて顔に近付ける。においは特にない。黒い液体はどんな味がするのか、想像が付かなかった。
「……飲んだら死んだりしないよな?」
「命までは取らない。相応の代償はもらうが」と、男は言った。
「代償って?」
「お前の場合は、視力が下がる」
「目が見えなくなるってこと?」
「そこまでではない……測れば0.2とか0.3とか、そんなところだろう」
それくらいならクラスにも結構いるはずだ。
「超能力と引き換えにしては軽いなあ」
「そう思うなら、いいんじゃないか」男は無感動に言った。「ただ、お前みたいな奴は、自分の望みが何から生まれているのかよく考えた方がいいと思うけどな」
望みが何から生まれているかなんて、わかっている。
おれは何も持たない自分が嫌だ。どんなものでもいい。つまらぬ一芸でも、勉強でもスポーツでも、あるいは性格とかコミュ力みたいな実体のないものでも……なんでもいいから何か一つ欲しい。おれだって、自分らしい特徴のあるただ一人の存在なんだと、感じたい。
椀の中身を一気に飲んだ。さらさらとした柔らかい舌触りがあり、味はしなかった。
「今日どうしても覚えて欲しいことはね、三つ、あります」
社会科の黒谷は影でオバサンと呼ばれている。比較的若くていつも隙がなく身綺麗にしているが、ときどきほうれい線が見えるし、オバサンと呼び掛けると面白いくらい顔色が変わるらしい。
「熱帯雨林気候、砂漠気候、地中海性気候」
細長い腕がカツカツと動いて、黒板に丸い字を書く。
「余裕がある人はあと二つ。温暖湿潤気候と、西岸海洋性気候……あとはカタカナも三つ。ツンドラ気候、サバナ気候、ステップ気候」
「三つどころじゃないぞお!」西倉が茶化した口調で言った。声色も変なふうに変えているから、芸人か誰かの真似なのかもしれない。
元ネタを知っているらしい生徒達が数名笑った。
「プリント三枚目を見てくださいね。まず五つの気候帯があって、その中でさらに細かく……」
社会の時間はいつも眠かった。他の授業もだいたい楽しくはないが、社会は一番面白くない。科目として好きじゃないというのが大きいが、先生も良くないのだろう。動画サイトで知らない塾講師が喋っているやつは、少しは面白かった。だから先生が替わらないかと密かに思っていたが、結局三年間ずっと黒谷だ。
こういうのって、たまたま面白い先生に当たった学校の生徒は成績が良くなって、少しはいい高校に行けるかもしれないんだから、完全に不公平じゃないだろうか。
黒板の右下の、端っこが破れた黒板消しを眺める。チョークの粉で真っ白になっている。黒板に当てるたびにキーキーと耳障りな音がするのだ。折れて短くなったチョークが転がっている。黄色、赤、青……。
教科書を覗き込むふりをしながら、こっそりと手をかざす。五本の指をゆるく開き、ゆっくりと握り込む。
再びゆっくり開くと、粉まみれの赤いチョークのかけらが手の中に現れた。
夢でも見ているような気分で、まったく実感がない。本当に今、あそこから取ったものだろうか。おれの頭がおかしくなって、歩いて取ってきたのに記憶が無いだけのような気もする。
「暑いか寒いか、と、雨が降るか降らないか、ですね」黒谷ののっぺりとした説明が続いている。「それから、特徴的な地形や風の名前。地図で言うと」
先生や他のクラスメートの持ち物を取れないか、と考えてみるが、取っても得はないし、返すときに怪しまれるだろう。かといって、他人のものをずっと手元に持っていれば、それも怪しまれる。
意外と使い道がない。もうちょっと使いでのある超能力を頼めば良かった。でも、これ以上便利な力を頼んだら、代償は視力よりも重いものになったかもしれない。それに、少なくとも授業が眠いときの暇潰しにはなるわけで、平日ほぼ毎日のように続く退屈を紛らわせるんだから、コスパは悪くない取引だったと思う。
結局、おれはこの能力をその後二、三回使ったきり、ほぼ使わなくなった。まもなく視力が下がっていって、日に日に遠くのものが見えにくくなった。それと合わせて、離れたところにいる人の声もなんとなく聞き取りづらくなった。相手の口の形がよく見えないと、聞こえた言葉もいまいちぼやけてしまって、頭に入らないのだ。
生活に支障は無いし、黒板の見えないところは後ろの席の向井に見せてもらってなんとかなった。眼鏡なんか掛けるとまた西倉みたいな連中にああだこうだ言われるだろうから、まだしばらくは掛けたくなかった。
ただ、そもそも西倉達にもあまり興味が湧かなくなった。教室の端にいる奴は誰が誰だかよく見えないし、何か話しているのはわかるが内容はわからない。注意して耳を傾ければわかるのかもしれないが、そこまでして知りたくない。
誰かがいて、何かを言っている。よく考えたらただそれだけで、自分には関係がない。
「この絵、いつまで貼ってるんだろうな」
ある日の体育を終えて教室に戻る途中、階段を折り返すところの掲示板を見て
「ああ……
つられて振り返ったが、ぼんやりと人影のようなものと文字らしきものが見えるだけで、何が描いてあったのか咄嗟に思い出せなかった。確か、すごくどうでも良い標語の書かれたポスターだった気がする。
というか、遠目には画用紙に絵の具が載っているだけだ。
あれを見ていちいち何か考え込んでいた過去の自分が、少し滑稽に思える。
「まあ捨てづらいかもなー。結構、意外と、上手いし」満宮はケラケラと笑った。「自分の絵がずっと貼られてるなんて、たぶん知らないよな、石津見君は」
「まあ、いいんでないの」曖昧で無意味な相槌を返す。
階段を上り切ったところの脇の窓から、校庭が少し見えた。茶色いだだっ広いトラックと、その向こうに、少しだけ木とか、あとは……何だったかな。
こっそりと手をかざしてみる。ゆるく指を開く。
掴みたいものが見えない。
近頃はずっとそうだ。
けど、たぶんこれで良かったのだと思う。前より日常のストレスが減った気がする。色々気にしすぎなくなるのも、精神的な成長の一つなんだと思う。成長というより、鈍化なのかもしれないが。
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