無為の跳躍(1)

 元はクリーム色だった階段が、絶妙に汚れて灰色になっている。各段の縁に貼ってある黒いゴムも、劣化して端からぼろぼろと崩れている。それに今の季節は全体的に壁が黒カビで点々と汚れているし、なんとも言えない下水じみたにおいが鼻をつく。


 階段が折り返す所の壁が掲示板になっていて、ずいぶん前に貼られたきり忘れ去られたポスターが放置されていた。アクリル絵の具でアニメ風の少女が描かれており、「手を洗おう!」と下手くそなゴシック体が、斜めに配置されていた。その字のほうはともかく、絵はそれなりに上手いと感じていたのだが、クラスの女子が「明らかに中学生とわかる絵」「昭和のアニメ絵」「イタイタしい」と陰口を叩くのを聞いて以来、あまり格好良く見えなくなった。聞けば同じクラスのいしが一年のときに描いたものらしい。石津見は去年頃から不登校なのでほぼ顔も見たことはないが、こうして学校に貼り出されるレベルの画力があるなら、少なくとも一芸は持っていると言える。たとえそれが、女子達から聞くに耐えない陰口を言われる程度のものだとしても。


 教室に入ると、廊下からずっと続いていたカビのにおいに汗と人いきれが加わった。窓を開けろよ、と思う。いつも窓際に陣取っている西倉軍団の奴らは、自分たちが邪魔になっているなんて考えてもいない。平気で窓際の生徒の机や椅子に尻を乗せ、どけろと言われない限り自分から動くことはない。窓際の一番後ろは石津見の席だが、もし彼がふと思い立ってもう一度登校してきたとしても、自分の席が陽キャグループのベンチにされているのを見たら速攻で帰るだろう。


 担任のぐちが入ってきて、「はい座れよー!」と叫んだ。樋口は丸眼鏡で猫背の、どこにでもいそうな男だった。四月に赴任してきたとき、くたびれたサラリーマンのような先生だなと思ったが、連休が明けると更にくたびれ度は増してきた。


 窓際の西倉軍団は、まだ喋っている。樋口は「座れよ」とやる気のなさそうな口調で再度言い、西倉達が動くのを待たずに朝礼を開始した。

「はい、おはようございます。昨日ですが市内でヘルパンギーナ感染症の注意報が出ましたので、皆さん手洗いうがいをするように。ヘルパンギーナ。ヘルペスじゃない。え、私も知りません。とにかくなんの感染症でも、手洗いとうがいだから、こんなことは幼稚園児でも出来ることだからね、ちゃんとするように。うるせえなあ、例えだよ例え……」

 一番前の席の生徒が茶々を入れているようだが、後ろ半分には聞こえていなかった。


 話題は今週の提出物、校舎の外壁工事、各クラスに貸し出されている図書室の本の扱いについて、と進んでいく。


 西倉達がようやく話をやめて自分らの席に戻った。毎日この流れだ。

 担任の樋口としては「無視という罰を与えた」みたいなつもりだろうし、西倉達は「キリの良いところまで話し終わって満足」ってところだろう。つまり、ウィンウィンということ。


「あと、ニュースかなんかで見た人もいるかもしれませんが!」樋口は全員が席に着いたのを見てから、やっと本題に入った。「一年生の中橋君という子が、このたび、警察に表彰されることになりました」


 教室がざわついた。


「え、なに、なにしたの? 捕まったの?」西倉が叫んだ。

「ちげえよ、悪いことしたんじゃないんだよ!」樋口はヘラヘラと笑った。「川に落ちた男の子を、助けたそうです」

「え、人工呼吸?」

「違う違う。川に足がはまってたところを、助けてあげて、その……」

「え、どこの川? 何歳の子? 小学生?」

「静かにしろよ」西倉の隣の女子が睨んで黙らせた。

「まあ、その子の家を探したら家でお母さんが倒れていたそうで、急病で動けなくなってたところに小さい子が一人で出てってしまってね。川にはまってたということですね。中橋君は親子二人を救ったということで。それで、ですが。一応、ないとは思いますが、例えば登下校の際に、マスコミの取材の人が話しかけてくることがあるかもしれません。もし話しかけられたら、『学校に問い合わせてください』と言って、勝手に答えないようにしてください。私も含めて先生達も、校門前や主な通学路を巡回するようにしてるので、話しかけられたら近くにいる先生を呼ぶように。ま、これは良いニュースですからね。中橋君にとっても、うちの中学全体にとっても、名誉なことなんで、変な動きをして泥を塗らないように……」


 中橋というやつは、新聞やニュースサイトに顔や名前が出るということか。川に落ちた子供を助けるなんて、そんな普通のことで表彰されるものなのか。二人の命を助けたと言っても、それはたまたまその親子が超絶に不運だった瞬間そいつが偶然居合わせたというだけであって、そいつの手柄でもなんでもない気がする。


 体育の準備体操で組んだ満宮みつみやにその話を振ったら、「確かに、だよな」と言った。

 裏山? ああ、羨ましい、か。

 羨ましいと言い切ってしまうと少し違う気がしたが、わざわざ言い返すと余計に羨ましがっている感じになりそうだ。


 満宮の左手と自分の右手を繋ぎ、二人で同じ方を向いて、頭の上で互いの腕を引っ張り合う。いち、にい、さん、し、ごお、ろく、しち、はち……。

「今日ってまたバレーなんだっけ」

「だろーね、」満宮は自分で言ったことが何となくウケたのか、ケラケラと笑った。

 身体の向きを変え、反対側の腕も同じように伸ばす。にい、にっ、さん、し……。


 西倉とその取り巻きが、準備体操を半分くらい省略して真っ先にボール入れに駆け寄るのが見えた。

 体育の教師で学年主任のかみは、気付いていないのか面倒なのか、何も言わなかった。先週、田口だったか誰かが準備体操をサボったときの扱いと差がありすぎる。生徒がそういうのを見てないと思ってるんだろうか、あの野郎は。


 西倉軍団なんて成績が良いわけでもないし、運動部のエースというわけでもないのに、なぜ教師達からあんなに優遇されるんだろうと思う。結局、陽キャでコミュ強で、大人から見て可愛がりやすい生徒だからってことなんだろう。


「じゃあ、そのままの組み合わせで、オーバーパスから」

 西倉達が勝手に練習を始めたのを見て、神尾は辻褄を合わせるように、全員に声を掛けた。


「あいつら、なんにも従わないよな」満宮は西倉達を見て意味ありげに笑った。

「だな。最近特にな」

「まじうざ。ごみくず」

「ゴミは言い過ぎかな……クソかな」

「まじくそ。くそくそ」

「なんで全部四文字で言おうとすんだよ。なんだ、クソクソって」

「あー、めんどい」満宮はケラケラ笑ってボール入れの方を指した。「あ、また四文字になった、。ねえボール取ってきてくんない?」

「はー? いいよじゃあ、取ってきてやるよ」

「なんなんだ本当に。アホかよ」

「あ、それも四文字」

「アホンダラ、うるせ」


 バレーボールがこんもりと入った金属の籠に向かって小走りで行く。目の前に手を伸ばすと、籠とそこに群がる他の連中を、この手でまとめて握りつぶせるように見える。

 そういう力があったらな。


 中二病とか、ではない。妄想じゃなくて、ただの空想だ。それに、ヒーローになんかなりたくない。


 もし自分に特別な力があったら、世直しや人助けなんか絶対にしない。ただ、ときどき遠くから色んなものを掴み取ったり握りつぶしたりして、こっそり一人で楽しむのだ。

 本当に、そういう力があったらな。だって、この世に絶対にそんなものが存在しないなんて、言い切れるだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る