彩の欠落(4)

 トイレ休憩から戻ると、はちが騒いでいた。怒られているのは野村だ。

 蜂屋の声はいつもの暗い小豆色で、今日は濃いめ。野村はまた、ピンクと青が入り混じった縞模様だ。しかもちょっとだけ、ピンクの割合が多い。蜂屋に怒られれば周囲の注目を浴びるし後々まで同情もされるから、野村にとってはそこそこ旨みもある災難なのだろう。


 事務員グループを統括していた正社員が今月から急に変わった。この職場では珍しくもないことだが、前の社員が急に辞めたのだ。蜂屋の独裁に任せて放任気味だった前任者に比べると、新しい上長は出世欲が強く、口を出したがりで几帳面だった。


 やりづらくなった蜂屋は連日ご機嫌斜めだった。四六時中、話し掛けるのも憚られるほど小豆色が濃く見える。相手の感情を読めたところで、いつでも機嫌が悪いのでは避けようがない。それに、避ける必要性も今の私にはあまり無かった。


 あえて蜂屋の機嫌が悪そうなときに面倒な相談を持ち掛けると、小豆色が充血したようにどんどん濃くなって面白かった。蜂屋の感情は濃くなるほど暗くなっていくようで、ずっと怒らせ続けたら最終的には真っ黒になりそうだった。それがどんな状態なのか、いつか見てみたくはあった。たぶんそのときにはこの職場が崩壊するのだろうけど。


 蜂屋の不機嫌に振り回されて、野村も毎日賑やかだった。ずんぐりとした大きな身体から発される声が、ポップな青とピンクの風車のように見える。くるくると動き回る縞模様が複雑に絡んで、野村が混乱し始めるとついに入り混じって紫色になってくる。それを見るたびに私は吹き出しそうになった。


「なんだか岩見さん、雰囲気変わりましたね」

 休憩用のソファで一緒に昼食をとっているとき、ふとふでやまが言った。

「前よりピシッとした感じというか、仕事ができそうなというか……いえ、岩見さんは前から仕事は早いですけど」筆山はふんわりと笑う。

「たぶん老けたんだと思いますよ」と私は言った。

「いえいえ、そんな」


 筆山だけは変わりなかった。いつも穏やかで、見えてくる色は落ち着いた桃色。


 私にとっては、以前は唯一ほっとできる話し相手だったはずが、近頃は気まずくやりづらかった。何があっても動じない人は、どこか不気味で底知れない感じがする。


「実は、神社でお祓いをしてもらったんですよ」と、私は言った。

「へえ、神社ですか」筆山はにこにこして頷いた。「そういうのって、詳しくないんですけど、好きなときに受けられるものなんですか?」

「まあ、うーんと……私も友達と飲んだ帰りにノリで連れて行かれた感じなので、詳しいことは覚えてないんですけど」酔っていたということにして、あのときの状況を誤魔化した。「そのとき、職場に怖い人がいて、その人の機嫌があらかじめわかったらいいのに、みたいな相談をしたら、変なことを言われたんです」

「変なこと?」

「相手の機嫌はわかるようになるけど、その代わりに自分の感情がなくなるかもって」

「へえ……」

「それ以来、ほんとにあまり気にならなくなったんですよね。色々なことが」

「凄いですねえ……やっぱり、そういう神職の方の言葉って、深みがあるんですね」筆山は勝手に上手く収まる解釈をつけて、うんうんと頷いた。


 筆山の声の色は一定して優しげな桃色だった。

 まるで、感情が無いか、まったく動かない人間のようだ。


「でも前より相手が浅く見えて嫌になることは多いんですよ。蜂屋さんのことも、怖くなくなったけど尊敬もできなくなりましたし」

「まあまあ、最近かなり追い込まれてますもの」筆山は微笑む。


 この話題じゃ駄目か。


「野村さんも、子供っぽいなとは思ってましたけど、最近は特に。私が虐めてやりたいくらい」

「ふふ。あの方も少し変わってますもんね」筆山は曖昧に頷いた。


 これも駄目そうだ。


「……そういえば、今朝いただいたレポのフォーマットなんですけど、筆山さんのあれって書式古くないですか?」

「あら、ほんとでした? ちょっと午後に見直してみます」

「そもそも書式は全面的に見直した方がいい気がするんですよね。ああいうのずっと、引き継ぎして引き継ぎして、で使い続けてて、完全に思考停止というか。事務全体が老害化したブスなおばさん集団になってるんだと思うんですよ。だから上長も愛想つかして出て行っちゃったんじゃないですかね」

「はあ……そういうものですかね」

 筆山の顔が困惑気味になってきた。それとともに、ずっと一定して桃色だった彼女の声に、淡い黄色が混じり始めた。


 やっぱり、感情はあるみたいだ。変化が見られたので少しだけほっとした。


「なんか私、変なこと言いましたね。疲れているみたいです」

「疲れますよ、そりゃあ。ずっとバタバタですもん」筆山は大きく頷き、その声はまた桃色に戻った。


 なんだか狡い、と思う。筆山は感情が無いわけではなく、単に落ち着いた、まともな人間なんだろう。私は蜂屋の叱責が気にならなくなるのと引き換えに自分の心まで取られたのに、筆山みたいな人間は、何の代償もなくいつも落ち着いていられるのだ。そして、それが普通の大人なのだろう。

 私が欠陥品なのだ。



 それから一ヶ月しないうちに、蜂屋は急に退職した。新しい上長と何かしら揉めて続かなくなったのだろうが、実際いつ頃どんなやり取りがあったのかはわからない。大っぴらに周知されたときにはもう蜂屋は有給の消化に入っていた。


 新しく来たがいという事務員は、若くて経験が浅かった。パソコンの基本的な使い方からレクチャーが必要で、覚えもそんなに早くはない。蜂屋がいたらあっという間に泣かせて辞めさせてしまっただろうが、今はそんなことをする人もおらず、気長に取り組みながら覚えてもらえば良いという空気だった。


 筆山も野村もそこに疑問は無いようで、小飼がどんな初歩的なミスをしてものほほんとしていた。私にはそれが、少々無責任に見えた。


「あのね小飼さん、頑張ってくれてるのは……頑張ってくれてるんだろうなと思うけど」

 操作ミスで今までの作業が飛んでしまった画面を見せられ、私は溜息をついた。

「あなたが上手く集計できなかったぶんは、結局私や筆山さんか手直しすることになって、今、二度手間になってる。そのぶん私達の元々の業務が減ってるわけでもないんだし」

「はあ。すみません」小飼はこぼれ落ちそうな大きな目で、パソコンの画面をじっと見つめながらぼそぼそ謝った。


 声の色は水色だ。いつもほとんど水色で、怒られるとその色味が暗くなる。


「もうちょっとね……せめて朝、早めに来たり、帰る前に少し時間取ったりして、その日覚えたことを自分なりに復習してもらうと助かるんだけど。私の言ってること、おかしいかな」

「いえ、今度からそうしてみます」小飼は申し訳なさそうに縮こまった。


 いつも申し訳なさそうにしてるわりには、彼女の水色はあまり変化が無い。だから叱っても手応えがなく、何を言っても伝わらないというもどかしさが続く。


 ついまた、溜息が出てしまった。

「ごめんね、私の教え方が下手だから。私のせいだと思うんだけど。なんかいつも、ちゃんと聞いてもらえてない気がするの」

「すみません」

 小飼の水色がさっと暗くなった。ちゃんと聞いていない、という指摘は彼女の琴線に触れるらしい。気にするところはそこか、と、私は頭のべつな隅で考えていた。

「ごめんね、私が疲れてるだけで。そういう気がしちゃったってだけなの。だから気にしないでね!」

 涙目になってきた小飼を見ているのも気まずくなって、私は適当に切り上げて自分のデスクに戻った。


 隣の席の筆山が、ちらりと私を見る。近頃はいつも、気遣いと困惑の入り混じった目だ。

 うざいな、と思ってしまう。まるで親か先生みたいで。

 筆山のようなちゃんとした人間からしたら、私みたいな人間はどれほど幼稚で惨めに見えるんだろう。


「岩見さん……最近、蜂屋さんに似てきましたね」筆山はいつもの優しげな口調と笑顔で言った。

「はあ」私はぼんやりと顔を上げて筆山を見た。

「その、話し方とか言い回しが」


 柔らかな桃色。変わりない。でも少しだけ困惑の黄色も見える。


 もうちょっとくだらない言いがかりをつけて、その黄色が濃くなったところを見てみたい、と思う。


 それと、この職場を辞めたほうがいいかもしれないという考えが、喉の奥につかえた小骨のように居座って日増しに強くなっていた。

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