彩の欠落(3)
人の声に色が付いて見えるようになった。
テンションの高い人はカラフルで、くす玉を開けたときのようにキラキラした粉や原色の粒が舞っている。落ち込んでいる人は暗い青や灰色。不機嫌な人は刺々しい赤や黄色で、機嫌の良い人は柔らかい桃色や水色だ。
「前からこれは社内心得としても定着しているはずですけど、今一度確認をさせてください。仕事には責任を持って取り組みましょう。それと、『忙しい』とか『難しい』とかは、禁句です。思考停止に陥らず、どうすれば実現できるかを考えてください。指示待ち人間にならないこと。社内心得手帳は皆さん当然、いつも持ち歩いていると思いますが」
蜂屋はいつも不機嫌で気の強そうな話し方をするから、こうやって演説が長い日はさぞかし怒りが煮えたぎっているのだろうと思っていた。けれども実際に彼女の機嫌が見えるようになってみると、意外にもぼんやりとして平坦な色合いだ。小豆色というのか、絶妙にくすんだ覇気のない赤色がメインで、それが時間帯によって濃くなったり薄くなったりする程度だ。
それでも、なるべく色が薄いときを選んで関わるようにしてみたら、すごく仕事がしやすくなった。
昼休みに財布を取りにロッカールームへ寄ると、一番奥のロッカーの前で野村が啜り泣いていた。
野村は四十代で、事務員の中では最年長だった。それに、身長で比較しても体重で比較しても、たぶん一番大きい。ただ、仕事の早さはごく普通だし、性格はかなり子供じみたところがある。
「大丈夫ですか?」私は財布を取ってロッカーを閉め直してから、歩み寄った。
「あ、ああ、すみません、すみません……」野村の声は明るいピンクと青が入り組んだ縞模様に見えた。「ちょっと、昼になってから頭が痛くなってきちゃって」
「そうなんですか? それじゃ、少し休まれたら……」
「けど今日は蜂屋さんに大丈夫って報告しちゃったから」
「そりゃ、朝の時点で元気でも、急に痛くなることはありますよ」
「ありがとう。でも、今日はもう言っちゃったから。そんなにひどくはないし、やること溜まってるし……」
野村が喋るたびに、ピンクと青の縞模様がくるくる、ぐにゃぐにゃと元気よく動く。
「早退されなくて大丈夫ですか? それか、少し昼休みを伸ばして休憩されたら……」
「いえいえ、もう、業務も溜まってるし」野村はぶんぶんと首を振り、その声はピンク色の割合を増してきた。
「そうですか……無理なさらないでくださいね。難しそうなら私や
昼休みが足りなくなりそうなので、私は財布の中を確かめながら話を切り上げた。
「ありがとう……すみません、すみません、頑張ってみます」野村はまた沈んだ声になり、縞模様は青色が優勢になった。
前から感じていたことだが、野村はとにかく人から構われたがるタイプのようだ。どういう状況にしろ、自分が気に掛けられていると気持ちが高揚し、話題の中心が自分でなくなると意気消沈する。色が見えるようになってからは、それが更にはっきりとわかるようになった。
相手は深刻な顔で涙ぐんでいるというのに、私は彼女の色がくるくる変わるのがちょっと面白くて、うっかり微笑みそうになるのを堪えてロッカールームを出た。
その日の仕事は普段にも増して立て込んでいた。重めの会議と来客が続き、事務員はまたお茶出し、備品準備、資料の印刷など雑務に追われた。あれこれが片付いてようやくデスクに落ち着いたのは夕方で、普段の業務は何も片付いていなかった。
蜂屋の様子も一日中ピリピリしていた。声の色合いを見ながら話しかけるタイミングを計ってみたが、結局また小言をくらった。
「すみません……」内容はほとんど頭に入ってこなかったが、とりあえず申し訳なさそうな顔と口調を作った。
「はーあ。別にあなたが悪いわけじゃないんだよね」蜂屋は大袈裟に肩をすくめて首を振り、とびきり力を込めた嫌味でお説教を締めた。「頑張ってくれてるつもりなのはわかってるの。それはわかってるんだよ? ただ、いつも結局ねー、謝れば済むと思ってる感じに見えちゃうんだな。見えちゃうだけよ? だから気にしないでね! ま、どうせあなたはそんなに気にしてないでしょうけど」
ここまで嫌な言われ方をしたのは数ヶ月ぶりだ、と私はぼんやり考えた。狭くはないはずの部屋が、凍り付いたような空気で満たされている。
自分の席に戻ると、隣の筆山がかなり心配そうな目を向けた。しかし私には不思議と実感が無かった。前回同じような叱責を受けたときは、思わず涙が湧いてきてパソコンの画面が眩しく見えたはずだ。あのときの視界はなんだかとても惨めだった気がする。けれども今は、とても視界がくっきりして、私の気持ちは静かだ。
何かが変かもしれないと感じたのはそれが最初だった。
その日はかなり残業をして、くたくたになって帰りの電車に乗った。
ホームから改札階へ降りる階段でまた目眩を覚えたが、特におかしなものは見なかった。本当に疲れているだけのようだ。
改札を出たところで、通路に並ぶ出張販売の店を見て思わず「あっ」と声をあげた。
以前から食べてみたかった洋菓子店のシュークリームが来ていた。表面がカリッとひび割れたシューに、輝くような黄色のカスタードクリームがたっぷり。香り付けのバニラシードが練り込んであって、その黒い点のような粒がなんとも甘そうで食欲をそそるのだ。専用ボックスのデザインも有名で、手描き風の大きな目のペンギンの絵はSNSでたびたび話題になっているのを見かける。
本店はかなり遠方で、知ってはいても口にする機会は当分無いと諦めていたものだ。
一も二もなく列に並んだ。さすがの人気店で、両脇の他の出張販売よりも倍以上の長い列が出来ていた。
簡易レジの脇に「お早めにお召し上がりください」と注意書きの札が見えたので、二つだけ買った。今日帰ってから食べる分と、明日の朝食代わりに一つ。
憧れだったペンギンの専用ボックスを受け取って、駅を出ながら、ふとまた何かが変だと感じた。
嬉しい買い物をした後のふつふつとした満足感が、今日はまったく湧いてこない。あれほど欲しかったものを思いがけず買えたはずなのに、私の気分は妙に空虚で静まっていた。
帰宅後、夕食を軽めに終わらせてさっそくシュークリームを食べてみた。評判通りに美味しい。サクサクした生地の歯ごたえと、上品な甘さのカスタードクリーム。期待以上の美味しさ、それは間違いない。しかしそれは、機械的に測定した数値のような美味しさだった。
心が動かない。気持ちが明るくならない。かといって暗いわけでもない。茫洋とした静けさだけがあり、どこか他人事のように遠い。
無色なのだ。
あの奇妙な神社に迷い込んだ夢の中で、少年が意味ありげに向けてきた笑みが脳裏に浮かんだ。
あーあ、飲んじゃったね。
得意げな、あるいは勝ち誇ったような、嫌味な笑みだった気がする。でも今となっては、そのとき自分の感じた苛立ちが思い出せない。
人の機嫌がわかるようになる代わりに、自分の機嫌を取られる、だったか。まあ、それならそれで結構便利なのかもしれないと思った。どうせ毎日、ほぼ嫌なことしか無いんだから。
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