彩の欠落(2)

 光を感じるために目が、音を感じるために耳があるように、感情を認識するために心があるとして、それは身体のどの部分なのだろう。胸の真ん中にハートがあったり、頭の中に脳味噌があって、それが気分によって赤くなったり青くなったりするのだろうか。少なくともそういう絵はよく見るから、多くの人の漠然としたイメージと合っているのだろう。しかし私にとっての感情は、その種類によって自在に身体の中を移動していく。

 悲しみは喉に。不安は腹に。緊張は肩に。苛立ちは股に、怒りは目の裏に。


 恐怖は背筋に。


 緩やかな石畳の坂を、人の波に押されてゆるゆると上っていく。あまり広くない参道の、左側半分が上りの列、右半分が下りの列になっているようだ。


 両脇には屋台が並び、醤油とバターの焼ける香ばしいにおいが漂っている。

 参拝客のほとんどは、ごく普通の老人や親子連れに見えた。友達、恋人同士で連れ立った若者や、私と同じように仕事帰りと思われる者も多い。日は暮れたばかりで、青黒い空には星もまだ見えない。屋台の軒下の裸電球が、人々の顔に濃い陰影を作り出している。そして、すれ違っていく参拝客の中にときおり、顔の陰影が完全に闇に沈んで見えない者が混じっていた。


 目の錯覚なのか、本当に顔の無い異形のものなのかはわからない。目を凝らす暇もなく次々とすれ違う。


 焼きそばを焼く鉄板のにおい、串焼きのたれの焦げるにおい。空腹のはずなのに、まったく食欲を感じない。


 空気は生温い。歩いていると少し汗ばむくらいだが、背筋がずっと寒い。何がとは断定できないが、この場所は普通ではない気がした。


 人の列に流されるままに進むと、広場にあかあかと火が焚かれていた。薪の代わりに積まれているのは、お守りや縁起物だろうか。全体に地味な色合いの竹製や木製の飾りが多い中で、合間に見え隠れする大小さまざまの鞠が気になった。赤い鞠。白い鞠。真っ黒な鞠。水色の鞠。ラメが入った緑色や、蛍光塗料じみたオレンジなど、こういう場ではあまり見ない色の鞠もあった。


 断続的に火の粉が巻き上がり、暗闇にふわりと昇る。頬に熱気を感じながら進むうちに、人の列は火の周りを一周し、元の石畳の参道に戻っていた。


「いらっしゃい」

 立ち止まったつもりはなかったが、ふと気付くと屋台の前にいた。真っ白な台の上に赤や黒の椀が幾つも並んでいる。

 台の向こうには七、八歳ほどに見える少年が、大きな木箱を踏み台にして立っていた。


 古風なおかっぱ頭に、紺のストライプ柄の甚平を着ている。子供らしくぷっくりとした丸顔だが、目は小狡そうで、油断のならない獣じみた光があった。


「おばちゃんも何か、お願いごとがあるの?」

 少年が目を光らせながら聞いた。ねっちりとして嫌味のこもった声色だった。


 だよ、などと言い張るほどの拘りはない。

「そうだね、せっかく神社に来たんだし、何かお願いごとでもしようかな」

「お願いは何?」少年は言いながら、黒い椀を取って私に差し出した。


 椀の底に少量の、鈍い金色の液体が溜まっていた。


「うーん……君が叶えてくれるってこと?」

「おれがするんじゃないけど。その薬を飲むと叶うよ。代償を取られるけど」

「代償」

「お願いの種類で代償は変わるんだ。何を叶えたい?」

「さあ……じゃあ、人の気持ちが読めるようになりたいかな」私は蜂屋の甲高い早口とピアスを思い出しながら、言った。

「えー? 人の気持ちが全部わかると大変じゃん? 悪口とか聞こえてくるよ?」

「考えてることまでわからなくていいよ。機嫌がいいか悪いかさえわかれば」

「そんなの、顔でわかるじゃん」

「大人はそうはいかないんだよ。気持ちを隠すから」

「ふーん」少年はよくわかっていなさそうな顔で頷いた。「じゃあそれでいいよ。人の機嫌がわかるようになりたいってこと、ね。代償に、おばちゃんは自分の機嫌を取られるけど、いい?」

「機嫌を取られるって、どういうこと?」

「取られるは、取られるだよ。買い物をしたらお金を取られるのと一緒。大人ならわかるでしょ」

 少年の声にはこちらを見下したような、敢えて挑むような調子がこもっていた。


 面倒くさい子だな、と思った。親に構われていないのかもしれない。一人で店番をしているのも妙だし、あまり関わり合いになりたくない。


 願いがどうというより、その場をさっさと離れたい一心で、椀の中身を一息に飲んだ。

 抹茶のような舌触りで、微かに甘みを感じた。


「あーあ。飲んじゃったね」少年は空になった椀を受け取りながら、にやりと笑った。

「飲んじゃダメだった?」

「別に。願いが叶うから、いいんじゃない?」

「そうなのかな。だといいけどね……」

 周囲のざわめきが強くなる。夜の湿気と人いきれで、空気が重たく篭っている。


 明日も仕事か。憂鬱だな。




「大丈夫ですか? 具合が悪いですか?」

 はっと目を開けると、階段を下り切ったところで手摺を掴んだまま前屈みになっていた。


 杖をついた老婆が、私のもう一方の手を掴んで覗き込んでいた。目尻に深い皺の刻まれた目に、心配と不審が半々で浮かんでいる。


「すみません、大丈夫です。ちょっと眩暈がして」

 私は慌てて体勢を戻し、老婆の顔をあまり見ないように会釈を繰り返しながら、できるだけ足を早めて改札に向かった。

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