彩の欠落(1)

 人間関係は得意なほうですか。と、面接の最後に聞かれた。はい、と私は答えた。本当はまったく得意ではないが、答え方として「はい」以外にはないと思う。人嫌いでコミュニケーションが苦手で……などという人間は、どこだって雇いたくないはずだ。


「そうですか。いや、なかなかね、仕事そのものより人間関係で……って人が多くてね。三崎さんはこうして話しててもしっかりしたタイプに見えますし、大丈夫そうとは思うんですけど」

 紺のスーツをぴしりと着こなした面接官は、三十代後半くらいに見えた。仕事ができそうな人だな、というのが第一印象だ。物腰柔らかで、気さくな雰囲気が前面に出ている。ただ、本心は全く見えず、どこまでもビジネスライクな姿勢だ。


 まあ、結局は入ってみなければわからない、と私は思った。わざわざ人間関係がどうとか聞かれるくらいだから、気難しい人がいたり上下関係が厳しかったり、色々あるのかもしれない。しかし、学生時代からのバイトも含めて、ギスギスした職場はいくつも経験してきたし、それでめげて辞めてしまうなんてことは無かった。わりと図太いほうなのだと思う。所詮、お金を貰うためにしていること、と割り切れば、かなりしんどい状況でも怖くはない。

 来週後半くらいにはご連絡しますね、と言われて帰された。そのまま二週間経っても音沙汰が無かったので落ちたのだと思っていたが、なぜか受かった。


 後になってから聞いた話では、先に採用された人が一週間で辞めてしまって、私が急遽「繰り上げ当選」の形になったそうだ。さもありなんと思った。この職場は私が過去に経験したどんな底辺バイトよりも嫌な職場だった。


 出勤したらまずロッカールームに向かう。制服というほどのものではないが、事務員は共通のジャケットと名札がある。着替えながら、ロッカールームの壁に掲示物が増えていないか確認する。

 壁は事務員グループが、というかそのリーダーのはちが、自主的に貼った手書きのポスターでいっぱいだった。

 挨拶は自分から! 口角を上げる! 会釈の角度! ハンカチとティッシュは持ち歩く! ペンの正しい持ち方! 声をワントーン明るく! 次の日が休みの場合は引継ぎをしっかりと!


 掲示物はまた増えていた。「出勤したら今日の体調をリーダーに報告。育児・介護中の人は家族の体調も!」

 今月になってから風邪が流行り出した。自分や家族の体調不良で早退する人が続出したので、蜂屋がまた爆発したのだろう。


 家族の体調なんて完全にプライベートのことだし、自分の体調だって予測がつかないことは多々あるだろう。いつものように野村が最初だけ律儀に守ろうとして、すぐ上手くいかなくなって泣き出すに違いない。正社員の上長にまで話がいって、それでも蜂屋の主張は否定されるわけでもなく、肯定されるわけでもなく、全てが有耶無耶になって終わるだろう。同じことを百遍繰り返しているのに、誰も学習しない。私もそういう職場に居着いている時点で、学習しない者どもの一員というわけだ。


 予想通り、始業前の朝礼で蜂屋から長々と、体調管理と急な早退や欠席の防止策について説明をされた。蜂屋は事務員の中で最年長ではないし、体格も小柄で華奢だ。だから、見た目で威圧感を覚えることはないが、口を開くととにかく早口で声がよく通る。彼女が勢いづいて喋っているときは、隣の部屋にいてもわかるほどだ。


 まともに聞いているのもしんどいので、蜂屋が喋っている間は彼女の耳を見ていた。癖っ毛を後ろでまとめて横髪をピンで留めているから、両耳のピアスがよく見える。大抵はシンプルな丸い金のピアスだが、日によっては淡い水色の三角形や、ルビーをあしらったレトロなものを付けていたりする。本日は四角いパールグリーンのピアスだった。初めて見る気がする。後で褒めておいた方が良いだろうが、少なくとも今ではなさそうだ。


 処理しなければならない書類やレポートが溜まっていたが、来客も多い日だった。応接用の会議室を整えたりお茶を出したりするのも事務員の仕事だから、こういう日は慌ただしくなる。昼休みが後ろにずれ込んでしまい、周りが午後の業務に入っているのに自分だけ休憩というわけにもいかない。焼菓子を缶コーヒーで流し込んで昼食代わりにし、すぐにデスクに向かった。


 書類はなんとか夕方までに完成したが、蜂屋にそれを報告するのが憂鬱だった。先週ネチネチと訂正を入れられたものと同じ形式だった。経理データの集計欄があって、何度やっても数字が合わない。状況によって加算する項目が違ったり、原本データの差し替えがあったりと、細々とした原因はあるのだが、最終的な合格が出るかどうかは蜂屋の機嫌次第みたいなところがある。

 蜂屋は今朝からあの調子だし、早めに出しても時間いっぱい直させられるだけと思うと、さすがに憂鬱だった。ほとんど無意識に時間稼ぎをしていた。あえて容量の重いファイルを開き、動作の遅くなったパソコンを休み休み操作しながら、数値を見比べる。画面と睨めっこしたところで、状況が変わるわけではない。無意味な時間だ。


 しかし、終業時間が間近になってから恐る恐る提出すると、一発でオーケーが出た。

「ありがと。これで全部だっけ?」蜂屋は自分のパソコン上で私の提出したものを開いて、カーソルを雑に動かしながら、ほとんど内容は見ていないようだった。

「今日の分は終わっています」私は頷いた。

「了解了解。じゃあお疲れ様でしたー」

 今朝のすごい剣幕は何だったのかと思うほど、蜂屋の機嫌は良さそうだった。彼女の気分の切り替わるタイミングがまったくわからない。


 機嫌が直ったなら直ったと言ってくれたらいいのにな。ロッカールームで着替えながら思わず、溜息混じりに呟いていた。

 三つ隣のロッカーで同じく帰り支度をしていた筆山ふでやまが、くすっと笑って「え、蜂屋さん?」と聞いた。

「ああ……はい」私は曖昧に頷いた。

 筆山は事務員の中で一番私と歳が近く、入社した時期も近いので、話しやすかった。クラシックなボブカットの髪がふんわり纏まっていて、喋り方も柔らかく、笑顔を絶やさない。

「最近またキリキリなってますよね。前期の締めが近いから、社員さんたちも詰め込んでくるみたいで」

「せめて来客が少なければ……」私は言った。

「今日はバタバタで、ねえ。今日はというか、今月ずっとですかねえ」筆山はうんうんと頷いた。

 そう思っていたのが自分一人ではなかった、とわかるだけでも、幾分気が楽になる。蜂屋を始めとして付き合いにくい人達が多い中で、筆山の存在は唯一の救いかもしれない。


 帰りの電車はいつも通り混んでいた。立ちやすい場所はすべて埋まっていて、手摺も吊り革も微妙に遠い。列車の揺れで転ばないように気をつけながら、スマホを眺めて最寄駅までの半時間をじっと耐える。雨が降ったのか、車内には生温い湿気と独特のにおいが篭っていた。


 両肩が重い。湿気のせいで息苦しく、軽く頭痛もする。風邪気味なのかもしれない。ロッカールームに張り出された蜂屋のお手製ポスターを思い出して、どっと疲れが出てきた。小さな不調をいちいち報告する気にはなれないが、これで熱が出たりしたらまたうるさく言われるのだろうか。


 最寄駅についてホームに降り立ったとき、強い眩暈を感じた。改札階へ繋がる長い階段を降りながら、ここで足を滑らせたら転げ落ちて死ぬのかもしれないな、と思った。私が急に死んだところで実家の両親は気付かないだろうし、もし連絡が行ったところで「そんなこと急に言われても困る」などと怒り出すだけの気がする。特に愛情がないとか暴力を振るうとかいった人達ではないが、昔から不測の事態に弱くて、どこかずれた親だった。職場も、たぶん反応は似たようなものだろう。蜂屋だったら、急に死ぬなんて迷惑、事前に報告すべき、くらいは言いそうな気がする。


 階段の隅に排水と掃除用を兼ねた小さな溝があった。手摺の影になって、妙にその溝が深く暗く見える。

 何かが挟まっているのだろうか。ぼんやりその暗がりを眺めているうちに、いよいよ眩暈が強くなった。


 咄嗟に手摺を掴もうとした手が空を掻く。


 気づくと階段も駅も搔き消え、私は混み合った参拝客の列に押し流されて真っ黒な鳥居をくぐるところだった。

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