財の誘惑(2)

 帰宅すると亜依奈あいなが服の山を幾つも作って試着ごっこをしていた。

「また買ったのか?」

「また、って言ってもね、もう夏物買わなきゃだし」

 亜依奈は黄色い花柄のレトロなワンピースを着て、ソファに飛び乗った。元々ショートカットだった髪を最近更に短くした彼女は、夏物を着ると余計に活動的に見えた。

「これ、いくらだったと思う?」

「さあ。千円とか?」

「ざーんねん。百円でした」

 自慢げに言うことかよ、と、ぼやきたくなる。亜依奈の行きつけの店は駅ビルの地下にある古着屋だ。彼女にとってはデザインや質の良さよりも「いかに安く買ったか」が重要だそうで、投げ売りコーナーで掘り出し物を見つけた日はとにかく機嫌が良かった。


 本当は、今年くらいには結婚するはずだった。五年前には確かにそう思っていた。

 俺の稼ぎで養ってやる、などと思い上がっていたわけではない。亜依奈は常々、自分が暮らすぶんくらいは自分で稼ぐし、と言ってその通りにしている。将来の話を振ってみても、仕事を辞めて家に篭るなんて性に合わないとケラケラ笑う。そういうところが気楽で良かったし、自立した彼女が側にいるからこそ、俺も思い切って自分の事業にチャレンジすることができた。


 けれどもこの歳になってくると、まったく頼ってもらえないのもある意味では苦しいのかもしれない、とわかってきた。

 先に結婚した友人や元同僚達は、月日が経つほど自分の築いた家庭に根を張って馴染み、そこに深い絆が生まれているように見える。俺と亜依奈は、何年経っても「同居している他人」だった。


 奥の自室に篭ってパソコンを開き、溜まっているメールの返信を始める。お世話になっております。お世話になっております。お世話になっております。請求の件ですが。期日の件ですが。発注の件ですが。

 ほんの十五分くらいのつもりが、気付くと二時間経っている。時間がいくらあっても足りない。そろそろ一人では限界なのかもしれない。でも、人を雇う資金なんてどこにある。

 画面の端に縦長のウィジェットで表示しているSNSは、大学の同期が家を建てたという話題で盛り上がっていた。


 際限のない作業にうんざりして居間に戻ると、亜依奈がソファに寝転んでバナナを食べていた。

「それ、夜食?」

「んー」亜依奈は手元のスマホを覗き込んでニヤニヤしてから、イヤホンを外して顔を上げた。「なに? ヨー君も夜食? ビール残ってたよ。ポテチも」

「はあ」俺は彼女の斜め向かいの一人掛けソファに腰を下ろした。

「発泡酒だったかも」と、亜依奈は付け足す。

「これは真面目な話なんだけどさ」俺は口を開きながら、夢の中で刺青の男に取引を持ちかけられたというのは真面目な話なんだろうか、とも思った。「俺の会社がもっと順調にいって、マンションもこんな賃貸じゃなくちゃんとしたのを買ってさ。あーちゃんもあまり残業が多い仕事じゃなくて、休日しっかり休めるところか、なんならパートでも暮らせるようにして、子供も……欲しくなかったらいいけど、もし欲しかったら考えて……」

「いやいや、なんの話」亜依奈は苦笑いしてバナナの皮をゴミ箱に投げた。

「もし、それくらいの資金を得られる、ってなったら、受ける価値はあるよな?」

「ええ? 融資してくれるところ、見つかったの?」

「まあ、そんなはっきりした話じゃないけど」

「あんまり、うますぎる話はやめた方がいいんじゃない。いいように使われるだけかもよ」

「というか、過去を売ってくれという話なんだよな。いや……与太話だと思って聞いて。例えばの話。纏まった資金を貰える代わりに、子供の頃の思い出とか大したことない記憶とかが消えることになったら、どうなのかな。記憶喪失になるんじゃなく、現在や未来に傷はつかない。ただ、過去が無い人間になる」

「過去が無かったらそれは空っぽな人間でしょう」亜依奈はスマホに目を戻してまた微笑んだ。「なんか疲れてるね。働きすぎじゃない?」

「そうかも」

「ヨー君は、子供が欲しいの?」

「うーん……今の状態じゃ、考えられないな。今はとにかく、金が欲しい」

「まあ、そうでしょうよ」亜依奈はふふっと笑った。もしかすると、スマホに映ったものが面白くて笑ったのかもしれない。

「あーちゃんは、不満はないの?」

「あったら私は、すぐ言うよ」

「確かにな」

「ねえヨー君、」

 自室に戻ろうとした俺を、亜依奈が急に呼び止めた。

「変なこと考えないでね。ヨー君がヨー君でなくなったら、今の生活だって全部無意味になるんだから。私と付き合う理由も会社を頑張る理由も、全部なくなっちゃうよ。お金のためにモチベーションまで捨てないで。将来が不安なら一緒に何か考えよう」

「まあ、うん」

 何か考えるといっても、俺にはピンと来なかった。ただ、彼女と作ってきたものを失うなんてやっぱりあり得ない、と思った。取るに足らない過去と割り切ってしまうには、長く付き合い過ぎていた。知らないうちに俺もまた、この暮らしに根を張って馴染んでいたのだ。



 結局俺の事業はその頃がピークだった。間も無く、業界内の小バブルが弾けて一気に風向きが悪くなり、俺の会社も順当に資金が尽きて畳むことになった。

 俺と亜依奈はマンションを引き払い、2Kのリノベーション団地に引っ越した。コンビニが近くなった、と言って亜依奈はまたケラケラ笑っていた。

 再就職もまだ決まらない中で、良いタイミングとは言えなかったが、俺から半ばお願いのような形でプロポーズをして入籍した。彼女のためにどうこうというよりは、俺の将来の指針としてそういうけじめが一つあったほうがいいと思った。


 亜依奈には結局話していないことがある。傾きかけた経営をどうにか立て直そうとした最後の悪あがきの期間、俺はもう一度あの異界に入り込み、刺青の男に過去を売った。やれるだけのことをやってみなければ気が済まなかった。亜依奈と一緒に作り上げてきた暮らしや将来の可能性を失うなんてあり得ない、とあの時は本気で思ったのだ。今も後悔はしていない。


 だから俺の中には、妻との過去の思い出が何も無い。ただ、離れがたくなるほど長く付き合って、そのまま一緒になった、という事実だけがある。


 先日、晩酌がてらにぼんやりテレビを見ていると短いニュースが流れた。高速道路で派手な玉突き事故があり、発端のスリップを起こしたスポーツカーの運転手が死亡したとのことだった。丸抜きされた小さな顔写真を見て、俺は思わず声をあげそうになった。四角い大きな眼鏡と身体に染み付いたようなスーツ姿に見覚えがあった。あのとき俺のすぐ横で、一生遊べるほどの金と引き換えに寿命を売った男だ。

 彼の贅沢な「一生」は結局あれから二年足らずだったようだ。それが十分だったのか無慈悲に短かったのかは、死んだ本人にしかわからないのだろうが。

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