財の誘惑(1)
駅の東口から西口へ抜けるとき、改札の中を通れればそれに越したことはないが、ときにはすっかり改札を出てしまってからやっぱり反対側へ出たかったと思うこともあって、そうなると少々厄介だった。駅ビルにショッピングモールが繋がっていて、その中を抜けようとすると動線がごちゃごちゃして仕方ない。買うつもりもなかった商品を延々と見せつけられ、押し売りされている気分になる。
だいたいこのモールの一階に並ぶのが年配の女性向けの財布やハンカチ類なのが、余計に俺の気分を下げるのだった。ブランド好きだった母方の祖母を思い出すからだ。しわくちゃの婆さんがたっかいスカーフなんか巻いて何になるかね、と父はよく陰口を叩いていた。俺には父のその感情の出どころがよくわからなかったが、母に聞こえるように当てつけで言っているのはわかった。可もなく不可もない普通の家だったが、どうも思い出すのはギスギスした不自然な会話ばかりだ。その祖母もとっくに亡くなって、俺は就職して二年目以降は帰省していない。
新卒で入った会社を三年目で辞めたことも、実家には知らせていなかった。
自分が起業するとは思っていなかった。全く興味を持っていなかったといえば嘘になるが、ああいうのは基本、行動力があって意識が高くて、コネが豊富なやつらがするんだろうと思っていた。要は、パリピというか陽キャというか。俺とは別な種類の人間たちの世界だと。
上手くいったのは幸運も重なったせいだろう。同じことをもう一度しろと言われたら、できる気がしない。それに、上手くいったと言っても会社勤めの頃より少しだけ良い収入に、会社勤めのときとは比べ物にならない量の激務。働く時間で割ったら、むしろ時給は下がっていた。
モールを迂回する暗い連絡通路を抜けながら、いつも舌打ちが出る。無意識に。この通路沿いにも古い店舗がいくつか並んでいて、ちょうど通路が直角に折れるところの内側の角に、寿司屋がある。いわゆる、回らない寿司だ。墨をたっぷり含ませた太筆を叩きつけたような字体で「鮨」と白抜きされたのれんを見ると、自然と舌打ちが出てくる。次いで、だるい溜息。
ここで
それ以来、彼女と一緒のときは意地でもこの通路を通らないようにしている。
似合わない贅沢などしても、余計にみっともない。父はいつもそう言っていたし、俺も心からそう思う。会社を飛び出て独立して、入ってくる金は増えたが、出て行く金もほぼ同額。資金繰りに悩み、肝心の時に連絡のつかない取引先にイライラし、時計と睨めっこで電話の着信を待ちながら高級寿司なんか食いたくない。
若いうちから金も暇もあって、高いものを身につけ高いものを食って悠々と生きている連中は、いったいどんな人間なのだろう。やはり、実家が太いとか、遺伝的にIQが高いとか、そういうことなのだろうか。
だとしたら俺には一生無理な話だ。
にわか雨が来たらしく、通路の向こう口から湿ったにおいを纏った通行人が流れ込んでくる。寿司屋の暖簾下のぼんやりとした暗がりを振り返ってまた無意識に舌打ちしたとき、急に目の前が白く明るくなって、強い眩暈をおぼえた。
気付けば真っ黒に塗られた鳥居をくぐるところだった。石畳の緩やかな上り坂を、老若男女の参拝客が埋め尽くしている。両脇に屋台が並び、夕暮れの薄ぼんやりした曇り空に赤い提灯が冴えない光を放っていた。
遠くから、低い太鼓の音がどろどろと響いている。辺りは雑沓に相応しいざわめきで満たされ、個々の会話に聞き耳を立てようとしても、何故かひとつも聞き取れなかった。
人の波に流されるまま進み、大きな火が焚かれる広場に出た。大小の招き猫がうず高く積まれ、燃えている。五円玉を縛って作られた亀や鶴の置物、金の延棒、それに札束も燃やされていた。まさか本物ではないだろうが。
「ああ、勿体無い……勿体無いな……」
燃える札束を物欲しそうに見ながら手を擦り合わせている男がいた。大きな四角い縁の眼鏡に炎が映り込んで、顔がよく見えない。くたくたに伸びた安物のスーツが、身体の一部のようにすっかり馴染んで張り付いている。
後ろから一段と混み合った参拝客の列が押し寄せて来て、俺もその男も流れに巻き込まれるように火のそばを離れ、石畳の参道へ戻っていた。
先程上ってきた坂を、今度はゆるゆると下る。
もうそろそろ帰りたい、と俺はぼんやり思った。亜依奈は今日も残業だろうか。
「欲しいか?」屋台の男が急に低い声で話しかけてきた。
思わずびくっと肩をすくめ、立ち止まってしまう。
真っ白な長机に赤や黒の椀がいくつも並んでいる。その向こうに浅黒い肌の若い男が立っていた。目つきのせいなのか、妙な威圧感がある。袖の長い無地のシャツを捲り上げていて、肘の近くに梵字のようにみえる刺青があった。
「欲しいです」と、隣に立つ男が言った。
先ほど火に向かって勿体無いと呟いていたスーツの男だった。
「いくら?」刺青の男が椀をひとつ取って、差し出しながら聞いた。
「ええと……一生遊べるぶんくらい、とか?」
「構わんが」刺青の男はやや目を細めてじっと相手を見据えた。「代償に、寿命が縮むぞ」
「それでもいいです。太く短く生きますよ」スーツの男は椀を受け取って一息に中身を飲んだ。
「お前は? いくらだ」男は俺に目を向けた。
真っ先に頭に浮かんだのは、来月支払わなければならない幾つかの固定費と頭金だった。ただ、そもそも会社を始めるにあたって借り入れたものが焦げ付きかけている。もし、今から足元を固め直すための元手が倍くらいあったら……だが、早死にも絶対に嫌だ。
「お前の代償は未来ではなく過去になる」男は低く淡々とした声で言った。「金額に見合う分だけ、思い出を失うことになるだろう」
「記憶が、消える?」
「知識や事実を忘れることはない。現在に影響するものは何も。思い出せる過去が減るだけだ」
大金の代償がそれだけなら、随分安い気がする。失うのが辛いほどの綺麗な思い出があるわけでもない。
けれども決断できなかった。
「また欲しくなったら、また来ればいい」刺青の男は差し出そうとしていた黒い椀を静かに下ろして言った。
気づくと元の、駅の薄暗い連絡通路に立っていた。
雨のにおいを纏った人々がガヤガヤと押し寄せ、そのうちの幾人かは「鮨」の字が白抜きされた暖簾をくぐっていった。
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