泥を這い出て淵に浮く
森戸 麻子
恋の妙薬
電車が自宅の最寄駅に近づき、長い悲鳴のような音を立てて減速する。私はスマホの画面を見たまま身体を少し傾け、離していた手すりを掴み直した。女性の声が駅名を告げる放送に被せて、運転士がマイクを取って話し出す。
「エ、ホームとの間に隙間がございます。エ、足元、落とし物にご注意ください」
いつも、この注意を聞くたびに、ざらついた予感に身慄いする。子供の頃、この隙間が怖くて仕方なかった。
電車の床とホームの間に口を開ける深淵は暗く、金属と錆のにおいに満ちて、どこかいつも湿っている。そこに落ちてしまったら、痛い思いをするだけでは済まないような気がした。
駅の隙間はたびたび学校でも話題になった。誰かの知り合いがあそこに落ちて死んだらしいとか、カメラを仕掛けて乗客の下着を盗撮しようとした者がいたとか。またときおり「そういう」話が好きな者が語るのは、あの隙間に髪の毛や血のついたティッシュを落とすと異界の神社に連れて行かれる、という話だ。
鳥居が真っ黒で、その両脇に、狛犬のかわりにのっぺらぼうの白い石が立っていてさ。そこではいつもお祭りの屋台が並んでいるんだけど、売ってる人は人間じゃなくて、売ってる物も食べ物の形をしているけど、中身はタイヤの切れ端とか、割れたガラスとかなんだって。それを周りの他の人達は普通に食べていて、口にガラスが刺さって血が垂れたりしてるんだけど――
実際には、異界への通行料に何かを捧げる必要はない。ただ、その隙間を跨ぎながら「通してください」と小さく呟くだけで良い。はじめは何も起きないが、その駅で降りるたびに何度も呟いていると、ある日ふいに道が通る。それ以降は、念じながら跨ぐだけで通されるようになる。
気づくといつも、黒い鳥居をくぐった後だ。だから鳥居が黒いのは確かだが、のっぺらぼうの白い石は見たことがない。確かめるために引き返したら電車の中に戻ってしまいそうで、私は試したことがなかった。
狭い境内を人の波が埋め尽くして、ゆっくりと進んでいく。左側半分は奥に向かって、右側半分は手前に向かって。石畳の道は上り坂になっている。雨が上がったばかりなのか、濡れた石のむっとするにおいが立ち込めて、肌にまとわりつく。
殆どの参拝客は普通の人間だ。老若男女、満遍なく色々な人間が混じり、私のように制服姿の者や子供も混じっている。
ただときどき、顔が真っ黒な虚になった者や、足がなく宙に浮いている者、異様な鳴き声を上げ続けている者などが混じっている。だからできる限り、俯いて顔を見ないようにし、話し声も聞かないようにする。
綿飴や串焼きや、甘酒の入ったカップを持った者とすれ違う。おかしなもので作られているようには見えない。だが、じっと観察する勇気はなく、私は目を逸らす。
列に流されるまま進むと、やがて黒い土が剥き出しになった広場に出る。その中央では火が焚かれている。しめ縄、達磨、熊手、破魔矢、季節外れの正月飾りが積まれ、朱色の炎に包まれる。参拝客のうちの何割かは、自分の持ってきたものをそこに投げ込んで手を合わせていた。
緩やかに進む行列は火のそばをぐるりと回って、元来た道を下る。緩やかな石畳の下り坂。
「お嬢さん、三度目だね」
前を行く老人の背中を見ながら淡々と歩いていたはずなのに、いつの間にか一つの屋台の前で立ち止まっていた。
真っ白な長机に黒と朱色の椀が並び、その向こう側に色白の若い男が立っていた。
整いすぎてまるで彫像かマネキンのように見える顔だった。闇を呑んだように真っ黒な眼と、同じ色の髪。細く硬そうな腕がすっと伸びて、私の目の前に朱塗りの椀を差し出した。
中には鈍い金色の液が一口ぶんだけ入っていた。
「甘いよ」男は無機質な表情のまま微かに頷くように首を動かした。「どうぞ」
「どうなるんですか?」私は腕を受け取らないように手を下ろしたまま、金の液体を見つめた。
「願いが叶う。その為に来たんだろう。なのに、なんの願も掛けずに帰って、そしてまた来たね。これで三度目」
確かにここに来るのは三度目だ。一度目も二度目も、この道を上って火の周りをぐるりと回って、また下って帰った。
「何か願わなければいけないとは、知らなかったので」
「ふふ」と、男は笑った。笑ってもやはり、作り物のような人間離れした印象は変わらなかった。「何かを願う人しか、ここには来ない。たとえ自覚があろうと無かろうと」
何でも良いから願いを言ってみろ、と言われ、私は渋々口を開いた。
「じゃあ、恋愛成就で」
「好きな相手がいるのか」
「はい。同じ学校の先輩です」
「その人と両想いになりたい、と」男は朱塗りの椀をふと引っ込めて、その底に溜まる金色の液を覗き込んだ。
「叶えてもらえるんですか?」
「勿論、叶う」
「幾らくらい掛かるんですか?」世の中にそうそううまい話は無いことはわかっている。
「安くはないかもな。相手の心を変えさせるなら」男は椀から顔を上げて目を細め、私の顔を探るように眺めた。「ま、片目くらいは覚悟した方が良い」
「片目? それなら要りません」ぞわっと背筋が寒くなった。
「なら、別な望みにすることだ」
何も望まず帰るというわけにはいかないのだろうか。
しかし、それを言い出してみる勇気も出なかった。
「……じゃあ、相手の心までは変わらなくていいので、私に話しかけてくれる機会が増えたら……っていうのは」
「それが望み?」
「その、幾らくらいかによりますが」
「まあ、相手が君を気に掛けるようになるにつれ、今まで君を気に掛けていた者が君への関心を失う。そんなところか」
「等価交換ということですね」
「そう思う? それなら、そうかもしれない」男は後ろの棚から何かを取り出し、椀の中に何かを振り入れた。
それから、椀をゆすって中の液体を回し、あらためて私に差し出した。
金色の液体は暗い藍色に変わっていた。
「苦そう」受け取りながら私は言った。
苦くはなかった。抹茶のような口当たりで、ほとんど味はなく、後味が微かに甘かった。
気づくと私は駅のホームに立っており、私を下ろした電車は次の駅に向かってどんどん小さくなっていくところだった。
口の中にはまだ、藍色の薬の舌触りが残っていた。
翌朝、昇降口前の廊下で
私を見てもまるで何も見ていないかのようにその目は動かず、無言ですれ違った。
まあ、現実はそんなものか。近くですれ違えただけでも昨日の「夢」のご利益はあったのかも、と納得しかけたとき、
「そういえば、あの」
と呼び止められた。
「は、はい」慌てて向きを変えて、足がもつれそうになった。
古洞さんが私に話しかけている。
「二年生、だよね? 音楽の……一年のときのワークってまだある?」
学年は名札の縁と上履きの先の色でわかる。古洞さんが話し掛けたのは、私だからというよりは、たまたま居合わせた二年生だから、ということらしい。
「たぶん、家にありますけど……」
「ほんと? もし使わなかったら、貰えないかな? 妹がこんど一年なんだけど、俺のが汚くて、いらねえって言われちゃって」
「いいですけど……いえ、私のもあまり綺麗じゃないんですが」
「いや、全然、全然いいの。俺のが酷すぎるから。ほとんど使わないんだからお下がりで大丈夫じゃんて言ってたら、俺のが使えなくて、母親がキレちゃってさ……」
古洞さんの少し照れくさそうな表情を眺めながら、間近で見るとこういう顔なんだな、と私はどこか冷静に観察していた。
「あ、それじゃあ今度持ってくるので、連絡先教えてもらえませんか」私は通学鞄の横ポケットからスマホを取り出した。
「いいの? 助かる。ほんとごめんね。何かお礼……好きなお菓子とかある?」
「え、なんだろう、お菓子は何でも好きですけど」
言ってから、なんだか食い意地の張った言い方だと後悔した。お礼なんていいです、とか、そういうふうに言わないといけないのでは。いいですというのも失礼なのかもしれない。お気遣いなく、とかが正しいのだろうか。
「なんか機嫌良さそう」
教室に入って自分の机の前に収まると、前の席のカミヤにそう言われた。
「うん、ちょっとね」
「ええ? なになに?」
「まあ、ちょっとね」
カミヤは悪い人間ではないと思うが、噂好きだから、うっかり個人的なことを話せない。少なくとも、願いを叶えた「代償」は彼女ではなかったようで、その日は休み時間が来るたびに「で、何があったの?」としつこく聞かれた。もっとも、カミヤが気に掛けているのは私本人ではなく噂のネタなんだと思うが。
どうせなら古洞さんと話せる代わりに、それ以外の全員から無視されるくらいでも構わないのに。下手な関心など持たれても、煩わしく気まずいだけだ。私への関心が無くなることが私にとって「代償」となるような人間が、身の回りにいるんだろうか。
その答えはその日のうちにわかった。実際、古洞さんと連絡先を交換できたことについては単なる偶然かもしれないと、半信半疑でいたけれども、それも間違いなくあの異界への参拝と不思議な飲み物のせいだったのだとはっきりわかった。
私への関心を失ったのは母親だった。
その日以来、風呂に入れとか勉強をしろとか味噌汁を残すなとか、細々したことを言われなくなった。雑談を振っても質問に短く答えるだけで、会話が続かない。
それでも、無視されるというわけではなかったので、覚悟していたよりはずっと軽い代償だった。いまさら親にベタベタ甘えるような歳でもないわけだし、これくらいでちょうど良かったのかもしれない。
スマホの通知欄に現れた古洞さんからのメッセージを見ると、つい、顔が綻んだ。
大丈夫。私はまだ、恋をしている。
昨日のドラマについての感想を古洞さんとしばらくやり取りしてから、居間へ行くと私の分の夕食だけぽつんとテーブルに置いてあった。
母親はちゃぶ台の方に移動してぼんやりテレビを見ている。
ネギが多めの餃子に、レタスとトマトのサラダ、冷奴、卵を落とした味噌汁。それに、母がいつも「ふりかけ」と称する小松菜の茎のみじん切りを炒めたものが、小鉢に入っている。
私に関心が無くなっても、母の料理はまったく変わらない。レストラン並に美味いというわけでもないが、この味で育ってきたから口に馴染むし、自然と疲れが取れる。
それが母の愛情のおかげなのだとどこかで思っていた。けれども、母にとっては単なる仕事であって、私への思いがあろうが無かろうが出来栄えに大きな差はないものだったらしい。
毎日の食事が無くなったり不味くなったりするよりはずっと良かったはずだ。それでも、一生知らずにいた方が幸せだったかもしれないと、ふかふかのご飯に甘辛い「ふりかけ」を乗せて掻き込みながら、何度も考えてしまう。
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