第4話 怒りで対抗

 子は親に似る、というのは、学校の参観や、習い事の見学などへ行った時に、強く感じる。

 この子の親があの人、と分かると、必ず納得する。

 うちの子もそうだが、親が自分に似せようとして似るのではなく、勝手に、自然に、似てくる。遺伝子の働きなのだろうか。

 よく喋る人の子供はやはりよく喋るが、その子は、よく喋る話の内容をどこで覚えるのだろうと、小学生の割に様々な言葉を駆使して喋る様子を見て感心して思うが、テレビやネットや親や友達の話の中のどこかで聞こえてきた言葉を生きた情報として捕まえて自分のものにできているから喋れている感じだ。

 動きや喋り方がゆっくりしているところなど、僕に似たところのある息子は、体育嫌いになるかと思われたが、総合体育教室に、また、昔とは変わった教育や価値観に助けられて、体育や運動が好きになりそうで、ほっとしている。

 僕の運動ができないところは、誰に似たのか分からない。


 体育の時間に非難され否定され罵られても、ただ怯え悲しくなるだけで怒りを感じることはなかったのだが、ある日、いつものようにバカにされていると、何でおれはこんなことを言われてるんだ、自分では普通にやっているのに、との思いが芽生え、そう思うと猛烈に腹が立ってきて、ふざけ半分に、僕のボールの投げ方を真似しながら僕に近づき、からかう奴に、ボールを持ったまま、下から思い切り頭突きをかました。

 顎に命中したらしく、また今までひたすら無抵抗で弱々しかった僕が突然攻撃してきたことへの驚きもあったのか、そいつは激しく痛がり、うずくまった。

 回りの奴らが僕に向かってきたので、投げ飛ばしたり、キックを出したりした。

 皆、驚いていた。


 このことをきっかけに、何か侮辱を受けるとすぐに怒りを爆発させるようになった。

 この時代、父親や学校の先生をはじめとする大人の男は、何かと言うとすぐに怒るのが普通だったし、怒鳴って威圧することが教育だ、との考え方が一般的で、体罰は愛情だと思われていた。

 運動でも何でも、できない奴に対しては、叱って怒鳴ることでできるようにさせることが教育だった。

 そのことは僕も知っていたが、心からの理解はできなかった。

 怒られると、動きが固くなる。ぎこちなくなる。結果、ますますできなくなる。

 しかし、当時主流の考え方は、そんなものは乗り越えなくてはならない。それが男だ。根性だ。

 それでもできなければどうすれば良いのか、という答えは全く用意されていない。

 怒られ続けることが常態化していくと、怒りには怒りで対抗するしかない、と思えるようになってきた。

 さらに、球技などの団体競技は、そもそも始めから上手くできないと回りに迷惑が掛かるシステムになっている。

 わざと上手くできないわけではないのに、回りのことを考えていない、などと罵られるのは、理不尽極まりない。

 大体、好き好んでお前らと一緒のチームでやっているのではない。

 小学生なりに、団体競技そのものが持つ理不尽さにも少し気付き、その意識が眠っていた激しい怒りを呼び起こした。


 僕が怒るようになると、回りの反応も少し変わってきたが、あんまり怒ってばかりいると、あいつ、すぐ怒る、体育できないくせに、自分が悪いくせに、とそれはそれで非難を浴び、はじめはびっくりしていた回りの人間も、またやってる、と驚かなくなった。

 しかし一度怒る癖がついてしまうと、止まらなくなった。

 体育の時間、気に入らないことがあると、今までは小さくなって涙を流していたのが、回りの奴を殴りまくって、物に当たりまくるようになった。そうして自己表現するしかなかった。

 体育を大事にする世の中全体を壊したい、体育ができる奴が偉そうにする世の中をぶっ潰してやりたい。

 怒りの衝動に身を任せていた時に僕の頭を支配していたのはそんな思いだった。




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