第3話 運動ができない子向けの教室
食事後の忙しい時間帯、下膳、口腔ケアの介助、トイレ介助、居室への送迎、臥床介助、更衣の介助、と、ひとつひとつこなしながら、ふと思う。
スムーズに動けているし、回りの人達との連携も取れている。慣れというものは、すごい。
この仕事においても、はじめのうちは、何からやれば良いのか、と迷い、まごまごしていた。回りのベテランの無駄のない動きに圧迫感を覚えた。
今の仕事はチームプレイである面がかなりあって、阿吽の呼吸のようなものも必要だが、考えてみると、体育に似ている。
学歴がないと、仕事は体育に近いものとなる気がする。
誰でも初めての仕事は最初はできないものだということは数多くの後輩職員を迎えた経験を経た今なら分かるが、若い頃は、自分だけが覚えが悪く、自分だけができないのではないか、と絶望感と孤独感と罪悪感に襲われ、様々な仕事を転々とし、仕事を覚えることに苦しみ右往左往している最中、頭の中に体育の時間に受けた罵声がわんわんと響き渡ったり、お前は何をやってもダメだ、お前にできるはずがない、という幻聴のようなものも聴こえてくる始末だった。朝、布団の中にまで聴こえてきたことがあって、出勤できなくなり退職に至ったこともあった。
巡り巡って辿り着いたのは現在の介護施設の仕事だが、始めのうちは今までの仕事と同じように戸惑いまごついたが、ある程度やることを覚えたら、なぜかこの仕事においては他の仕事で感じたような行き詰まりは感じず、その後長く続けることとなった。
段取りを順序良くこなすことも大事だが、老人との関係性を作るのが上手いと、他の職員からも一目置かれる存在となれる。
幸いにも、なぜか僕はその部分に長けているようだった。特に今まで老人の世話などしたことはなかったのに。
今まで出来たことができなくて無力感を味わい、これ以上なく弱気になっている老人の集まりが介護施設で、回りのほとんどの人が当たり前にできる運動ができずに子供の頃から常に無力感を味わってきた僕が職員としてその人達と関わることで通じ合うものがあるようだった。
両親は僕が体操教室をやめてからは諦めていたと思ったが、どこからか、運動ができない子向けの体育教室、というものを探してきて、面談へ行かされることになった。
職員室のような所へ入らされ、メガネを掛けた、割と若めの男の先生の前に座らされた。
親や学校の先生や近所の大人が共通して持っている、何をやっても怒られそうな威圧感のある雰囲気は纏っておらず、少し拍子抜けする。同時に、この人は話を聞いてくれる、と直感した。
他の大人だと、何か言え、と口では言いながらも、こちらが一言、一語発するか発さないか、で即座に遮り、すぐに否定、嘲笑、訂正をされ、あとはその大人の持論を説教気味に延々と聞かされるに決まっているが、実際、僕が恐る恐る口を開くと、一言どころか、二言目も三言目も、じっと黙って聞いてくれ、さらに、目を見て、頷いてくれる。
僕が話す内容を理解し、興味を持ってくれているのが分かる。こんな大人もいるのか。
その先生の態度が、より僕をリラックスさせ話しやすくさせてくれて、僕は自由に話しながら、自分は本当に体育が嫌いなのか、体育のどこが嫌いで、嫌いな中にも好きな部分、苦ではない部分があるとすれば、どのあたりか、を声を出しながら、冷静に考える余裕ができていた。
走るのは好きだけど、球技とか団体競技が上手くできないので、自分では一生懸命やっていても、回りから怒られるので困っている。
君が懸命にやっていることが知らず知らず、チームの勝ち負けから考えると損なことをやっていて、回りからも言われて、自信をなくしているんだね。
先生は僕が言ったことを別の言葉で言い換えてくれ、そう言われると、僕は本当の本当は体育が嫌いなわけではなかったのかな、と思えてくる。
後ろから両親の視線を感じながらも、普段大人に対する時よりは比較的堂々と振る舞う自分に自分でも驚いているところ、先生は後方の僕の両親に向かって話し掛ける。
この子は、この教室に来る必要はありません。体育は苦手なようですが、自分は何ができて何ができないか、が分かっているし、どうすれば良いのか、自分で考えている。
ここに通うのが必要な子は、体育、と聞いただけで心を閉ざし、人の目を見ることもできないような、こんな話し合いをしようとしても、まったく言葉が出てこないような子だけなんです。
と、きっぱり言い切り、両親はたじろぎ、僕は、通わなくて良くなったことにホッとしていた。
帰りの車の中では、お前体育嫌いなのに、何で嘘つくんだ、せっかく運動が苦手な子向けの教室見つけたのに、と非難されたが、あの先生が僕から言葉を引き出そうとしてくれたから喋ったまでで、両親や学校の先生を始めとした他の大人とは接し方が全然違ったから僕も思わぬ自分の本音が出て来ただけで、何で世の中の大人はあの先生みたいじゃなくて話もさせないのだろう、と思った。
父はことあるごとに僕を公園などへ連れ出し、苦手な球技を何とか上達させようとしていたが、父に怒鳴られながら何かを教われば教わるほど動きが固くなり、できなくなって行った。
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