『檸檬』の追従

悠木葉

六畳一間、人生の谷の陰謀

 時々、私は無性に腹が立つ。大学構内で響く猿の声、大講義室の後ろから見える色とりどりの後頭部。学生である私にとって、なんてことのない日常であり、二年近く付き合ってきたものだ。しかし無性に腹が立つ。

 猿の声を、私の雄叫びでかき消したい。彼らの下着が、括約筋から解放された糞尿で濡らされる、見るに見かねる様子を笑いたい。目が回るような色彩の、幼児の落書きにも満たぬ芸術を作り出す彼らの後頭部に平手打ちを喰らわせたい。そう悶々と思いつつも、社会的立場というしがらみが私の邪魔をするために行動に移せない。私はどうにかしてこの怒りを解消したい。六畳に尻尾の生えたようなワンルームの下宿で、私は頭をひねった。

 しかし、あまり良い案が浮かばなかった。気分を変えるために、私は散歩に出かけることにした。

 私は普段から散歩を嗜む健康優良児である。下宿の周囲の通ったことのない道を意図的に通り、記憶していた大体の家の方角のみを頼りに帰宅する。

 しかし今回は大学への、ひいては世界への憤りを再認識し、反逆の術をより効率的に考案するために大学構内をうろつくことにした。

 大学へ到着し、私は普段から通るレンガ敷の舗道を歩いていた。前方から二人組の女性が歩いてくる。帰路につく下宿生だろうか、駐輪場の方面に向かっている。すれ違いざま、私は彼女らが手に持っているものを見た。レモンティーといちごミルクだった。かわいらしいな、と未だ見ぬ彼女らとの春にふと思いを馳せていると、私の脳内でアイデアの大爆発が起きた。

 梶井基次郎は、私のように社会のしがらみに苦しめられていたのではなかろうか。そして、その中で反逆の術を編み出した。それが檸檬の爆弾ではなかろうか、と。彼の爆弾は、クリエイティビティの爆発の象徴であると同時に、ささやかな反逆開始の合図なのだ。銃声なのだ。


猿や頭を生み出した、諸悪の根源たる社会に反逆を! 


 尊敬すべき先人である彼に倣い、私も檸檬を手に入れよう。私はウキウキでスーパーに向かった。


******


 現実は非情であった。近所のスーパーは意識が高いのか国産のみを仕入れ、一個当たり三百円の高級檸檬であった。そのくせ安物のウインナーを試食させるのだから、中途半端にもほどがある。

 苦学生の模範たる私は、財布の中身とにらめっこをして、泣く泣く青果売り場をあとにした。

 金回りがよろしくないのは仕方ないとして、私は潔く金を使わぬ反逆を模索した。レンジでチンした夕飯を貪り、ゲームに興じ、睡魔に身をゆだねる直前、私は妙案を思いついた。そして浮き足立ったまま夢の中へとスキップしていった。

 翌日、都合よく休日であったため、銀行で僅かなお金をおろし、近所のカフェへ向かった。そこでは、朝にドリンクを注文するとモーニングが無料でついてくる。

 私はドリンクの中で一番安価なホットレモンティーを注文した。同志への敬意を示すとともに、飲めないコーヒーを回避する妙案であった。

 数分後、カップになみなみ注がれたレモンティーとトーストが運ばれてきた。私の胃を必要以上に刺激する煽情的な香りがテーブルに充満した。

 問題はこれをいかに遅く消費するかであった。効率的に時間的非効率を追求せねばならない。私の考えた社会への反逆の一つは「居座り」であった。

 経済は金を回すことが前提となる。経済は、金が天下を回ることによってはじめて「経済」へと変貌する。逆説的に、金を回さなければ経済は停滞し、立ち行かなくなり、社会は滅亡の一途を辿る。これこそが私の反逆、最低限のお金だけを使い滞在の権利を獲得し、無料の水を駆使してできる限りの長時間席を占領することでダメージをじわじわと与えていくのだ。「ただより高いものはない」とはよく言ったものだ。

 朝の九時から夕方五時までの滞在で生まれた、あまりある暇を利用して私は読書に没頭した。当然の如く大学付属の図書館で借りたものである。実のところ、本に関しては新品を買い出版社を応援し、自宅に保管しておきたいところではあるのだが、いかんせん苦学生のため、やむにやまれず借りることにした。社会の反逆に燃える中でも、守るべきものを見極め、そして自己の研鑽を欠かさぬことで己の行動に正当性を付け加えるのだ。当然もとより大義名分の下に行われている行動ではあるが、大衆の理解を得るために理解しやすい行動をとることもまた日本の智の結晶たる大学生の義務ではなかろうか。

 私は海外の小難しそうな文庫本や学術書の表紙を見せびらかしながら、大衆に理解を求めつつ彼らと私の大きな溝をまざまざと見せつけ、悦と文字の世界に浸るのであった。

 さて、実のところもう少しカフェに長居をしたかったのであるが、生憎夕食の買い出しに出かけねばならぬ故、私は会計を済ませカフェをあとにした。私の腹と同様すっからかんの冷蔵庫にモノを入れてやらねばならぬのである。

 志半ばで退店してしまったことに対する穴埋めはスーパーで行うことにした。適当に食材を物色しながら、私はあるものを探した。スーパーの半分を回ったころ、やっとそれを見つけた。試食である。私は鞄の中からキャップと眼鏡を取り出し、装着してから試食を提供している女性の下へ近づいた。

「一つ貰っていいですか」

 私は少し俯きがちにそう言った。

 彼女は微笑を絶やさず、どうぞ、と言い私に銀色のミニプレートを差し出した。私はその上に乗った、小さくカットされたウインナーを口に入れ、彼女に礼を言ってからその場を離れた。私はそれをもにょもにょと味わいながら、スーパーの残り半分を彷徨った。口の中では安物のウインナーの味がした。肉汁はなく、砂漠のように口内は乾燥していた。

 スーパーをあらかた回りきってから、私はキャップと眼鏡を外し、上着を脱いだ。春には着脱可能な一枚があると寒暖の調節がしやすいため便利であるとの理由から愛用していた上着が思わぬ場面で役に立つことに感動を覚えつつ、これから本来の用途と異なる使い方をしてしまうことに引け目を感じた。

 それでも私は歩みを止めてはならない。上着とその他をカバンに詰め込み、私は別人と化した。先刻までの私と、今の私との間にある共通点はせいぜい身体構造と戸籍情報くらいのものである。看破されることは万に一度もあり得ない。

もはや私ではない私は、もう一度試食を提供している女性へ近づいた。

「一つ、貰ってもいいですか?」

 あくまで初回である体を装い、少し声を低めに出し、受け答えも少し変えた。女性は相も変わらず笑顔を絶やさず、安物のウインナーを差し出した。私はそれを受けとり、口に入れた。

「おいしいですね」

 私は心にもないことを言った。彼女は、勤務前に暗記したのであろう商品の販促をし、私はそれにまんまとひっかかったように、それを手に取った。

「じゃあ、買います」

「ありがとうございます」

 私はその場を後にした。風体も言動もすべてを変えた。ばれるはずがないのだ。私は会計を済ませて帰宅し、先ほど購入したウインナーを使いささやかな祝勝会を執り行った。試食した時より少し美味しく感じた。

ゴミ箱に投げ捨てられたレシートは、二百円ほど高い会計額が印刷されているなど当時の私に知る由はないだろう。記憶とともに、その事実はは腹の中に静かに収められていった。


******


 それから、週に一度カフェへ赴き座り込みを決行し、不定期的に催される試食会には怪人二十面相を己に口寄せして参加する、忍耐の日々が始まった。

 私は社会への反逆のために、少しばかり増えた出費に目を瞑り、貴重な自由時間を差し出した。私は孤高の知識人なのである。真に偉大な人物というのは往々にして生前評価されないものだ。

 私は忍耐に忍耐を重ね、反逆に奔走した。これは社会への反逆であると同時に更生の機会を与える慈悲深き行為であるのだ。

 桜が新緑と入れ替わる五月に始めたこの闘いも、蝉が騒ぐ時期まで続いた。じつに四半期の間、私は己を犠牲にし続けたのである。これほどまでに長く継続すると、変装も暇つぶしも、よりスムーズに行えるようになった。時間が余らないように暇つぶしの道具を適切な数用意し、心に別人格を飼い始めたほどである。

 夏になってまで最安のレモンティーを選んでいては暑くてかなわぬため、私は泣く泣くアイスティーへと変更した。会計は二十円ほど高くなった。

 私は閉店間際のカフェで会計をしながら、私は新たな反逆の手段を考えていた。ふと、キッチンを担当している従業員からの視線に気が付いた。私が彼女らのほうを向くと、彼女らは私の視線から逃げるように霧散した。違和感を覚えつつ、私は店をあとにした。


******


 一か月後、世界は少し秋の様子を見せ始めた。私は今日も今日とて試食ハントを行うためにスーパーへ赴いた。いくら季節が変わろうが、私のやることは変わらない。なにか違和感を覚えた。入店してから今までの十五分間、どこからか視線を感じる。周囲を見渡すも、あるのは商品の数々のみである。モノの視線を感じる無用な特殊能力に目覚めたかと戦慄が走ったが、直感的に一人だけの視線であると理解した。誰かが商品棚の隙間から私を覗いているのであろう。悪趣味なヤツめと思ったが、ふと、私のファンなのではないかという考えが頭をよぎった。これは同志の視線なのではなかろうか。私の努力が世界に認められつつあることを喜ばしく思った。私の一番弟子特典として、サインの一つや二つを書いてやろうと思った。

 それからさらに五分が経過した。視線はまだ無くならない。恥ずかしがり屋さんめ。合計二十分買い物をしつつ、やっとのことで試食を見つけた。最近数が減ったような気がする。物価高騰の煽りを受けスーパーも火の車なのだろう

 近づいてみると、今日は乳酸菌飲料の試飲であった。私はそれを一杯頂き、礼を言ってその場を離れた。そしてしばらくしてから、いつもの如くキャップとメガネを身につけ上着を脱いで変装し、もう一度試飲に向かった。顔を見られないようにキャップのつばで顔を隠しつつ、私は

「一ついただいてもいいですか」

 と言った。店員は何も言わず、私に一杯を寄越した。それを飲み、空になったプラカップをゴミ箱に捨て、その場を後にしようと振り向くと、そこにはらラグビー部の主将のような大男が立っていた。そして服は、店員と同じであった。彼の目からは、ずっと感じていた視線と同じものが放たれていた。

「君、ここ最近何回も試食してるよね」

 私は死を覚悟した。


******


 私は蛇に睨まれた蛙の如く固まり、ただ彼の言うことを聞くほかなかった。彼の後ろについて、裏方の事務室へ向かった。

 事務室には小さな机と二脚の椅子があった。彼は私に座るよう促し、自分は私の向かいへ座った。ドラマで見る警察の取り調べのようであった。

「いつからやってるの」

「さ、三ヶ月前……くらいから、だと思います」

 店長と書かれた名札をつけた大男は、無言で私を睨みつけた。

「半年近く前からです」

 彼はため息をこぼした。

「物価高騰でこっちも苦労してんのよ。その中でも毎週セールをやって試食を提供して、お客様に還元しようと努力してるんだよ。わかる?」

 冷たくも力強い声に、私はぷるぷると震えながら頷くほかなかった。

「そういうことされたら、困るんだよね。そんなみっともないことやめたらどうだ? たいした腹の足しにもなんねえんだからさ」

 私が震えながら刺された言葉のナイフを引き抜いている間、彼はどこからか紙を取り出し何かを書き始めた。

 数分後、彼はその紙とペンを私に差し出した。

「これ、サインして」

 それは、二回以上試食をしないことを約束させるための即席契約書であった。私は誇り高き大学生にもなってこんな紙切れに、一番弟子に捧げるべき記念すべきサインの第一筆を記さねばならぬのかと惨めな気持ちになった。

 私は意気消沈しながらそれに署名し、会計を行ってからその店を出た。空を見上げると、月が優しく微笑んでいる。宙を枯葉が舞っている。秋風が私を避けていく中、私はこの半年の意味を今一度考えた。成果といえば、ただ恥をかいたのみである。もうこんな馬鹿なことはやめよう。そう決心した。


******


 次の日、反逆というしがらみから解放された爽快感で目が覚めた。半年ぶりの清々しい朝であった。私は良い気分のまま半日を過ごし、学生食堂で美味い飯を食べていた。

 すると、どこからともなく声が聞こえてきた。

「昨日スーパーで試食した後に連行されてた奴がいたんだけどさあ」

 私は爆発四散した。

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『檸檬』の追従 悠木葉 @yuukiyou

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