第3話 地下鉄サリン事件
(今尾)
私は、平成6年3月下旬、東京本社勤務になった。着任から約1年経った平成7年3月20日(月)は、思いがけず、全世界を震撼させる日となった。地下鉄サリン事件が発生したのである。自分がそのような事件に直接関わるようになるとはその時点まで夢にも思わなかったのであるが、結果的には一被害者の立場で深く関わることになってしまった。
その日は連休の谷間であったが、私は、いつも通り、6時半すぎR駅発の通勤快速電車に乗った。乗換駅の八丁堀で用を足した後、ほっとした気持で地下鉄日比谷線のホームへ向かった。8時5分頃、日比谷線の下りホームに中目黒行き電車が滑り込んで来た。いつもより、2、3本後の電車である。3両目の前部ドアが通過したところで停車した。今まで満員のため座れたことのない座席が半分くらい空いている。中央ドアから乗り込み、手前右側座席に座り本を読み始めようとした。しかし、何となく落ち着かない。
ふと右方向を見ると、前部右側ドア近くの吊革に片手でぶら下がり眼が虚ろでふらふらになっている男の人がいた。極めて異様で、今にも死んでしまいそうである。他の乗客も、不安げに見守っている。その頃、中央ドアから2、3人が駆け込んで来た。そのうちの男性1人が滑って転びそうになった。足元を見ると、あたり一面が濡れていた。何やら甘酸っぱいような異臭もした。何か変だと思った瞬間に、男の人と液体とが結びついた。「この液体によって、あの人がおかしくなったのに違いない」と直ちに判断した。なぜなら、床に広がっている液体が水のように透明であったからだ。非常に危険であると感じて立ち上がった。電車が動き始めた次の瞬間、男の人が真後ろに倒れた。手足がぴくぴくと痙攣している。周囲が騒然となった。
私は瞬時迷ったが、「薬物中毒では助けようもないし、下手に助けようとすればその場を離れられなくなり、非常に危険な状態に陥るだろう。まずは逃げるしかない」と結論づけた。本能的に、その人から遠ざかるため、徐々に後部ドアの近くへ歩み寄った。その頃から、少し気分が悪くなってきた。築地までが大変長く感じられた。築地に到着後、駆け足で反対側のホーム前方の改札口から外に出た。階段を駆け上がって、ようやく地上に出ることができた。
その後、私は、築地本願寺前の現場から近くの病院へ搬送され、丸1日の入院後、何とか帰宅することができた。吐き気は収まっていたが、眼の縮瞳と血液データ異常が続いていた。その頃には、オウム真理教のサリン使用による地下鉄を狙った大規模テロ事件であるらしいことが判明していた。社員のうち二十数名が本事件の被害者になったが、私が最も重症であった。たまたま私が乗った車両は、実行犯がサリン3袋を撒き死者14名中6名を出した最悪の事件現場であったのだ。
私は、それから約2か月後に縮瞳等から回復し、すっかり健康を取り戻すことができた。一瞬とはいえ前代未聞の地獄の淵に立ち、一歩間違えばあの世行きだったかと、今でも時々ぞっとする。
(生神)
あの事件現場での今尾の対応については、それまでの俺の教育成果の現れだと思っている。俺が奴に取り憑いてから40年以上経っていたからね。
毎日の行動には必ず危険を伴う。それは、形と程度の差はあれ、誰にも言えることだ。でも、それを認識するかしないかで、異常事態発生時の対応が違ってくる。その点、奴は結構いい生徒だったね。俺の教えを素直に聴いたからだ。それで、事件の頃には、かなり自己防衛力がついていた。それが活きたと思うね。
あの事件の頃、オウム真理教をめくる警察の動きが盛んに報じられ始めていた。そのうち彼らがとんでもない行動に出るかもしれないと思われていたね。でも、よもや地下鉄電車内でサリンが撒かれるとは、俺も予測できなかったよ。今尾もそうだった。八丁堀のトイレで用足しができた時は、俺も「やれやれ」の気分だった。まさか、その直後にとんでもない事態に巻き込まれるとはね。
地下鉄日比谷線の下りホームに滑り込んで来た電車には、明らかに異状を感じたな。いつもは大混雑している車両の座席が半分くらい空いていたからだ。今尾も同じように感じたようだ。でも、奴はその車両に乗り込んだ。それからが忙しかったね。空いた座席に座ったものの、何だか落ち着かない。ふらふらの男性には、驚いたな。俺は、直感的に「やばい」と思った。今尾も、すぐにそう感じたようだ。それで、奴の行動を見守ることにした。
今尾が男性を助けるのを諦めた時には、ほっとした。奴は、正義感の強い男だ。すぐ男性に近づくのではないかと、一時は気を揉んだよ。薬物で死にかけている人を助ける術を奴が持ち合わせていないことは知っていたからね。でも、奴は俺が望んだ行動をとった。
結局、あの男性はしばらくして亡くなったようだ。それだけでなく、地下鉄サリン事件で亡くなった人の多くがあの車両で被害を受けたらしい。今尾に対する教育成果が十分発揮できたと思うと、今でも嬉しくなるよ。
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