第2話 顔面強打
(今尾)
子供の頃の私は、自主性がなく、遊びではいつも2歳上の兄の後を追いかけていた。昭和37年秋のある日の午後、小学6年の私は、いつものように、中学2年の兄と一緒に実家近くの原っぱで遊んでいた。周辺にはセイタカアワダチソウやススキが生えており、背の低い私には周囲をあまり見渡せなかった。二人とも手に竹の棒を持ち、それで枯れ草をなぎ倒すのを楽しんでいた。
二人でしばらく草むらを歩き回っているうち、右側に3メートルくらいの高台がある所へ出た。私がそこに着いた時、兄の姿は見当たらなかった。どこに行ったのだろうと思いながら高台へ向かう坂道を上っている時、それは起きた。
枯れ草に囲まれた坂の半ば付近で、突然、口のあたりに強烈な衝撃を感じた。思わず、その場にしゃがみ込む。何があったのか、全くわからない。口に手をやると、血まみれの折れ歯が数本こぼれ落ちた。かなりの出血もあり、もしかしたら上顎が折れたのではないかと思った。どうやら、先に高台へ上がった兄が竹の棒を振り回しているうちに、私の顔面を直撃したようである。
慌てた様子で兄がやって来た。二人で確認したところ、怪我は前歯と唇にとどまっていることがわかった。その頃にはかなりの痛みを感じていたが、やや安心した。しかし、そのままでいるわけにはいかない。
兄の自転車で、最寄りのM医院へ行った。簡単な応急手当により、出血はほぼ収まった。医者の勧めに従ってO市内の歯科医院へ行き、まず、切れた上唇の縫合をしてもらった。また、傷んだ歯の治療をしてもらい、一部は差し歯となった。
それから数年間、上の前歯2本は抜けたまま放置していた。そのため、中学校では英語の発音に支障をきたすこともあった。高校2年になった頃、親が気遣い、入れ歯治療をしてもらった。長く放置していたため、上の歯の隙間が拡がり、入れた歯は1本だけであった。
後年、その事故について分析してみた。事故は、兄と私双方の不注意によるものである。怪我があの程度で済んだことは、極めて幸運であった。その理由は、こうである。私の歩みが少し遅いか兄の棒振りが少し早ければ、私は両眼付近を強打されたであろう。それにより、私は眼に失明を伴うかなりの傷害を負うことになったに違いない。逆に、私の歩みが少し早いか兄の棒振りが少し遅ければ、私は気管と頚椎を損傷したであろう。それにより、下半身不随になるか、あるいは即死したかもしれない。まさに、0.1秒の差で命拾いしたのである。また、木でなく竹の棒であったため、衝撃が比較的軽く、あの程度の負傷で済んだのであろう。
(生神)
どうやら、奴は幸運のおかげで助かったと思っているらしい。それは、何も奴に限ったことじゃない。人間は、事がうまく運んだ時、やれ「幸運」だの「強運」だのと、運のおかげにしたがる。反対に、失敗が続く時には、「不運だったね」などと、運のせいにしたがるものだ。実際は、そうじゃないんだ。俺たち生神が死神たちと壮絶な闘いをしながら、何とか人間が少しでも快適に過ごせるようにした結果なんだ。
今尾の小学6年の時の事故は、俺にとっても忘れ難い経験になったね。あの日、天気が良かったせいか、奴はいつもより浮かれているように思えた。兄貴と原っぱに出た時、周辺に複数の死神がうろつくのを感じた。油断したら、いつでも取り憑いてやろうという魂胆だ。
兄貴を追って奴が高台へ向かおうとした時は、少し嫌な予感がしたね。兄貴を探すと、高台の上で竹の棒を振り回すのが見えた。俺は、直感的に「やばい」と思った。兄貴が坂道の方へやって来たからだ。彼も、弟と同じく、結構無鉄砲だ。おそらく、弟の居場所を知らないだろう。俺は、兄貴に直接働きかける力までは持っていない。せいぜい、念波を送ることぐらいだ。この場合どうすべきか、しばし悩んだ。今尾は、死神に誘導されたのか、高台への坂道に向かっている。「危ないぞ」と言って見たものの、奴は聞く耳を持っていない。兄貴は、能天気に棒を振り回している。俺は、気が気じゃない思いで二人の接近を見守った。最早、何か起きるのは必至だと思えた。俺は、仕方なく、0.1秒単位のきめ細かさで奴の歩みを調整することにした。兄貴の動きに合わせるのは、大変だった。それでも、最後の一歩に賭けた。
突然の衝撃を受け、今尾と一緒に俺も倒れ込んだ。奴の怪我が致命的でないとわかった時は、心底ほっとしたね。何とか、微調整が成功したからだ。奴は、今も「幸運だった」とぬかしやがる。そうじゃない。俺が必死に頑張ったからだ。それだけは、間違いない。
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