33
「こっちは大丈夫、再構の人いるし。それより早く行かないと」
碧の無事を確認するはずが、逆にせっつかれることになって、貢士は再び“シティ”の中央図書館に向かった。
受付の女性に「パソコンでネットを使いたい」と告げると、フロアの隅にある個室型の自習ブースに案内された。扉を開けると、書き物ができる程度のカウンターがあり、今ではあまり見かけないデスクトップ型の端末が備えられていた。この図書館でもこれ一台だけらしい。信哉がここを指定したのには何か理由があるのだろう。
落ち着け――自分に言い聞かせながら、ジャケットを背もたれに掛けてキーボードのエンターキーに軽く触れた。
待機状態のモニターが明るくなる。
信哉に教えられたURLを入力する。ブラウザにURLを入力するなどという作業はもう何年もしていないな、と思う。
カレー専門店“ノブ”のウェブサイトが表示され、拍子抜けする。だが、そんな店があるわけもない。信哉がつくったダミーだろう。それとも本気でカレー屋でも始めるつもりか。
“当店のイチオシ!”という文字と一緒に表示された“たまごカレー”の画像をほとんど直感的にクリックする。信哉がいつも“ジュピター”で食べていたのがこれだった。間違いない。
ポップアップが開く。普段使い慣れたOSとは違う、見慣れないデザイン。しかし、ウィンドウは空白のまま何も起こらない。
やっぱり遅かったか――いやもしかすると別に端末があるのか。貢士は椅子から腰を浮かせる。
「――待って」
遠くから声が聞こえたような気がする。いや、違う。オーディオの音声だ。
傍らに置かれていたヘッドセットを装着すると、貢士は息をつめてモニターを見つめた。霧が少しずつ晴れていくように、映像が浮かび上がる。白みがかった画面はゆっくりと色味を増し、映像のディテールがはっきりとしてきた。
彼女はうす暗い部屋にぽつんと置かれた椅子に腰かけてこちらを見ていた。
「はるちゃん?」
貢士は小さな声で呼びかけてみる。
はるかは笑みを浮かべて微かにうなずいた。
「やっと、会えた」
声は間違いなくはるかのものだ。だが、その音声はやや抑揚を欠いている。そして、容姿は最後に会った時のままだった。思わず貢士は目を強く閉じた。
――簡易AI。
胸をえぐられるような落胆だった。
彼の気持ちを察したのか、はるかが話し始める。
「前からお願いしてたの。コージくんと連絡が取れるまでは保存してって」
データで構成された彼女をそれでも貢士は懐かしく愛おしいと思う。
「作ったのはノブ?」
「ううん、違う。私が昔、あのぉ、おつきあいしてた人」
また胸の奥が疼く。
「でも今はノブが管理しているんだね」
「そう。ノブくんにはいろいろ迷惑をかけちゃった」
でも、なんで――貢士は言葉を飲み込む。後悔の念が押し寄せる。
彼の動揺を無視して、はるかが笑った。
「ふふ、コージくんちょっと太ったね」
貢士は不意を突かれて、返答に詰まる。
「私にもコージくんはちゃんと見えてるんだよ?」
はるかが首を傾けてまた微笑んだ。
話さなければならないことはたくさんあるはずだった。でも彼女はもういない。
言葉を失った貢士に彼女は呼びかけた。
「ねえねえ」
懐かしい――彼女の「ねえねえ」だ。呼びかけてきたからといって、その後に何かこれといって話したいことが続くわけでもない。彼女の口癖。
「ん?」
「黙っちゃったから」
変わらない口癖。そう、変わらない、貢士はモニターの向こうの彼女と話そうと決める。
けれど、彼の方から彼女に訊けることは何もなかった。彼女がたとえはるかではないのだとしても、モニターに映ったその笑顔が哀しみに歪むのを貢士は怖れた。
「でもさ、どこいってたの? けっこう探したんだよ?」
「ごめん。最初からそういう仕事だったんだ、誰にも会えなくなる。きちんと話しておくべきだった」
そっかぁ、とはるかは小さくうなずいた。
「でも、今度はノブくんと私を探してくれたんだね」
「何も言わないでいなくなったことがずっと心に引っかかってた。仕事を辞めることになったとき、謝りたいと思った」
「そーんな顔しなくていいってー。はー、でも会えてよかったよねー」
彼女は両手を組み合わせて気持ちよさそうにぐっと伸びをした。
いかにもはるかがしそうなそのしぐさを見て、貢士の中で何かがはじけ飛ぶ。
「おれ――」
喉の奥から重たいものが痛みを伴ってせり上がってくる。
「おれ、また間に合わなかった」
涙声が裏返った。自分の声ではないみたいだ。でも、知ったことか。
「いつもそうだ。いつも。今の自分じゃダメだと思ってしまう」
はるかは、子どもの話でも聞くように少し身を乗り出してうなずいた。
「はるちゃんのことも、そうだった」
貢士がうつむいた顔を上げると、はるかは気づかうようなまなざしでこちらを見つめていた。
「私なんてぜんぜん大した女じゃないのにな――でも今日はうれしいよ」
貢士は口元に歪んだ微笑みを浮かべた。黙ってはるかを見つめる。
「ねえねえ」
「ん?」彼は彼女の「ねえねえ」に応える。いつものように。
「自分ひとりで決めつけちゃダメだよ」
薄暗かった彼女の部屋に、どこからか光が差し込んできていた。
映像の変化にはっとして貢士は時計を見る。
「まだ大丈夫?」
簡易AIの彼女を見た瞬間、なぜ信哉が時間を区切ったのかを貢士は悟っていた。たとえスキルがあっても信哉のような個人に認可が降りる代物ではない。けれど、需要はある。信哉が姿を隠しているのも、この偽造システムのためだ。
「まだ少しなら」
「そっち、部屋が明るくなった」
「うん。雨、止んだみたい」
「雨?」
「朝からずっとだよ」
「逗子でも雨が降ってた」
ふふ、とはるかが笑う。
「だったね。今度は晴れた日に行きたいよね」
貢士は唇を噛んでうなずく。
「あとはノブくんに消去してもらうことになっているの」
はるかの顔から笑みが消える。
「今のままだとノブくんにもっと迷惑がかかってしまう」
戸惑いも哀しみも失われていく。
まばたきもしなくなった彼女に、貢士は「うん」とだけ答える。
背景が部屋としての演出を捨て、空白に変わる。
「このまま保存してもらっても、きっとコージくんのためにもならない。ごめんね」
時間が予定をオーバーし始める。
はるかはまだそこにいる。最後の言葉を選ばなくてはならない。
貢士は混乱する。
じゃあ、また? 元気でね?
これまでいい加減に使ってきた別れの言葉のどれもこれもが役に立たない。
「ワタシノコトナラ、ダイジョウブ」
――限界なんだな、ノブ。
「本当に好きだった――はるちゃんのこと」
貢士は別れを決めて口を開く。
「許してくれ。ノブに伝えるんだ。もう切断して逃げろって」
ほとんど静止画のようになったはるかの口元に、一瞬、微笑みが浮かんだような気がした。
「ムカシノママ、コージクンモ、ノブクンモ。ヨカッタ」
映像が落ち、ポップアップのウィンドウが黒く染まる。
ヘッドセットに音声だけが届く。
ジャア、マタネ――。
ポップアップが容赦なく閉じられた。
全身から力が抜けていくような感覚に抗うように、貢士はポケットから信哉のメモリを取り出し、コネクタに挿す。端末が強制的にシャットダウンする。
――マズい、履歴を削除しないと。
彼はほとんど反射的に再起動をかけて設定画面を開いた。しかし、アクセスの痕跡は何も残されていなかった。
自分も早くここを立ち去ったほうがいい。そう思っていながら、貢士はモニターの前から動けないままでいた。
雨をデザインしたスクリーンセーバーがゆっくりと動き始める。
闇の中を銀のすじが落ち、丸い水紋がゆっくりと広がる。
また落ちる。また広がる。
彼は握りしめていたメモリを胸のポケットにしまうと、立ち上がって背もたれのジャケットを手にとった。
が、すぐにまた力なく椅子にへたり込んだ。
そして、くしゃくしゃのジャケットに顔を埋めると、嗚咽をこらえて歯を食いしばった。
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