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 ヘッドホンから楽曲が群れをなすように寺岡の耳に流れ込み続けていた。

 なんとなく気が向いて作り始めたプレイリストは、テーブルに並ぶ空き缶が増えるにつれて、年代もジャンルも混乱していった。とっ散らかって選ばれた楽曲に何か共通点があるとすれば、感傷的であるということだけだった。酔っ払いにはふさわしいラインナップだ。

 明日は休みだった。

 給料は高いとは言えないが、休日出勤などということはまずありえず、残業もない日のほうが多い。仕事のほとんどはルーティンで、大きなトラブルが発生することもまれだった。自分にはお似合いの職場なのだろうと寺岡は思う。


  ◇


 アルバイトで入った財団法人だった。嘱託職員にならないかと声がかかり、それを受け入れた。それでいいのだろうかという迷いがなかったわけではない。けれど、お間には何もできやしないのだと自分に言い聞かせ、二年後には正職員に採用された。

 彼がまだアルバイトだった頃に先輩としてそこにいたのが信哉だった。

 ミュージシャン志望だという気さくな青年は、おとなしい寺岡を気づかってよく声をかけてくれた。仕事を教えるのもうまかったが、寺岡のようなタイプを職場になじませるのはもっとうまかった。

 そしてアルバイトにも慣れた頃、ふらりと入ってきたのが貢士だった。少し自分と似ているな、と寺岡は思った。

 信哉と貢士は同じ歳だったこともあってか、自分とはまた違う距離感がその二人の間にはできあがっていったようだった。

 そこで働いているアルバイトたちの経歴はさまざまだった。信哉のほかにも音楽をやっている者が複数いて、一人はギタリストでもう一人はドラマーだった。大学の夜間部に通っている者もいたし、ネットにイラストや小説を投稿し続けている者もいた。そこそこの企業にいたらしいが体調を崩したり、嫌気がさしたりしてひと休みというのも一つのパターンだった。

 外から見れば中途半端な若者の集まりにすぎなかった。

 信哉が職場のミュージシャンで冗談半分のバンドをにわか作りで結成し、少し大きめのスタジオを借りて皆に演奏を披露したことがあった。寺岡も出かけていった。知る限りほとんど練習などしている様子はなかったと思うのだが、彼らの演奏はこなれていた。

「いつ練習してたんですか?」と寺岡が訊くと「慣れてりゃ誰でもできることぐらいしかしてないよ」とドラマーは言った。

 このようにしてアルバイトたちがプライベートでやっている活動や創っている作品、眠らせているスキルを知る機会がある度に寺岡は思った。

 ――おれには何もないな。


  ◇


 聴き流していた曲がピアノソロに入る。それをきっかけに寺岡の意識がどこかから引き戻される。ヘッドホンをしたまま酔った目で、ただ動いているテレビの画面を眺めながら考える。

 習わされていたピアノを辞めたのはいつのことだったろう。何もかもが中途半端なんだ。大学すらまともに卒業できなかった。どうしてこうなんだろうな。なぜ自分には何もないのか。なぜ自分は何もやり遂げられないのか。

 もしかすると、あの頃のみんなだって実は同じ気持ちだったかもしれない。でも、そうだとしても彼らは自分よりもずっと生き生きとしていたように思える。


 今日はもう飲むのを止めよう、と寺岡は考える。きっと、このところ短期間にいろいろな人と話をしすぎたのだ。

 そして、えにしの会と信哉の件が重く気持ちを沈ませるのは、アルコールではどうすることもできない。

 ヘッドホンにリストデバイスの呼び出し音が割り込んできて、寺岡はようやく音楽を止めることができた。

「いま、いい?」

 吉田利絵。彼女とは会の集まりで知り合いになった。

「いいよ、大したことはしてないから」

「何してたの?」

「ヨシダさんのことを考えていた」

 酔った勢いで似合わない軽口を叩いてみる。

「あっはっ。テラオカくん、ちょっとヘン」

 彼女がころころと笑う。

「あのね、日曜日の集会のことなんだけど――」

 本題に入った彼女の声に耳を傾けながら思う。失いたくないんだ。

 会に復帰してから、体調を崩していた父は少し元気になり、母にも自分が子どもだった頃のような笑顔が戻ってきた。もう何も失いたくない、自分から捨てるようなこともしたくない。

 利絵、君のこともだ。

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