20

 窓の向こうに広がる青い海が雨で白く煙っていた。激しい通り雨がたてる音と匂いが、ホテルの部屋を満たす。

 信哉は久しぶりに煙草を喫いたいという衝動を感じた。そして、以前に沖縄に来たときには、まだ喫煙者だったのだと思い当たる。

 三年ぶりに肌で感じる沖縄の気候は、一気に時間を巻き戻してしまうかのようだった。心のどこかにできてしまったらしい傷に触れないように。必要以上の刺激を与えないように。あのときの旅は、妙に静かなものだった。

 信哉はしばらく迷ったが、煙草を買うのは止めておこうと決める。あの頃に戻ってもしかたがない。でも、ゼロに会えばまた何かを思い出し、気が変わるのかもしれない。

 彼が東京の部屋を捨てて沖縄までやってきたのは、ゼロに会うためだった。ゼロはクラッキング界隈ではそれなりに名前を知られている人物だ。そして、“ロイド”制作の数少ない協力者であり、理解者でもある。信哉はそう思っている。


                  ◇


 “しのぎ”に関してはかなり慎重に行動しているつもりだった。そんな信哉のガードをあっさりと突破して、ゼロはダイレクトにコンタクトを取ってきた。

 ところが、脅迫の類かと思ったメッセージは、信哉が制作した“ロイド”へのほとんど手放しといってもいい称賛だった。

 メッセージは、一度リアルで会わないかという提案で結ばれていた。その場所が沖縄だった。当時からゼロの拠点を把握している者はほとんどいないとされていた。もちろん信哉が知るはずもない。沖縄には、情報通信産業の経済特区としてそれなりの資本が注ぎ込まれていたから不自然な話ではない。むしろ無防備すぎるのではないかとも思った。

 しかし、しばしば信哉の心をノックする勘は、そのとき何も警告を発しなかった。彼はゼロの誘いに応じて沖縄に向かった。

 指定された古い喫茶店は、那覇の中心街から少し外れたホテル街にあった。

「遠くまですみません」とゼロは抑揚のない口調で詫びた。

「びびったよ、なんでおれが追跡されてるんだって。しかもあの“ゼロ”にだよ?」

「私が出会いたかったものをかなり理想に近いかたちで実現していたし、まだもっと進化するかもしれないと思いました」

 ゼロはやはり豊かとはいいにくい表情と口調で理由を述べた。

「私がお手伝いを提案してもたぶんあなたは拒まない。あなたの感覚にも合うだろうとも感じます。それと――」

「それと?」

「何か強い寂しさみたいなものを感じました」

「“ロイド”から?」

「なぜかはわからない。でもそれがあの子たちの魅力になっています」


                  ◇


 あのやりとりから三年が過ぎた。

 通り雨が止み、約束の時間がくる。信哉はメッセンジャーバッグにラップトップとSSDをしまうと、部屋を出て一階ホールのラウンジに向かった。

 テーブル席でガラスウォール一面の青い海と向き合っている客が一人だけいるのが目に入った。その背中に近づきながら、信哉は声をかける。

「元気だった?」

 ノースリーブのシンプルなワンピースを着た女性が振り返った。つばの広い帽子で翳った顔に、薄い笑みが浮かぶ。

「一昨日もオンラインで会ったばかりです」

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