18
信哉はいつもの通り、ゆっくりと書店に立ち寄ってから電車に乗った。
取引先の男のことを考えていた。先日、信哉はいつもの通り、ゆっくりと書店に立ち寄ってから電車に乗った。
取引先の男のことを考えていた。先日、“
PJの最寄り駅で降りるのは止め、そのまま新宿に向かった。そして、目的地をなんとなく御茶ノ水の楽器店に定める。また電車を乗り換えた。尾行を確信できるようなことは何も起こらない。
改札を出た。楽器店が並ぶ坂を下り、通い慣れた中古店に入った。
ギターやベースがぎっしりとディスプレイされた店内を、漫然とした様子を装いながら眺めて歩く。気持ちが惹かれるような中古品も入荷していなかった。
狭い通路ですれちがいざま、若い男がバッグにぶつかった。すみません、と相手が詫びる。信哉は気にするな、というふうに無言でうなずいて店を出た。
おとなしい大学生といった風貌は、この街ではおなじみのものだった。簡単に埋もれてしまうだろう。が、男の顔には見覚えがある気がした。その一方で、会ったことなどないことも信哉にはわかっている。
彼の勘はいつもこのように働く。
そのまま神保町に向かって坂を下り、チェーンのコーヒーショップに入った。席を確保してから、荷物を持ってトイレに行く。
バッグを確認する。中には小型のGPS発信機が放り込まれていた。信哉は発信機を自分のポケットに移すと席に戻った。ぬるいコーヒーをゆっくりと飲む。
ひどくずさんなやり方だが、気づかずに帰っていれば、少なくとも住み家を確認することぐらいはできただろう。“
それほど長くなくていい。時間を稼ごうと信哉は決め、コーヒーショップを出るとそのままぶらぶらと地下鉄の入口に向かった。
自分が北海道に向かう。それが不自然ではない程度には、こちらの情報を把握しているだろうと彼は踏んだ。寺岡が関わっているならなおさらだった。
東京駅で切符を買い、北海道新幹線のグリーン車に乗り込んだ。
そして大宮に停車すると信哉は発信機をシートの隙間にめり込ませ、車内を駆け抜けるように発車間際の列車を降りた。
レンタカーのハンドルを握りながら、これまで折にふれてシミュレートしてきた段取りを確認する。
いずれこうなることはわかっていた。
目黒でレンタカーを乗り捨てると、信哉はマンションに戻り、注意深く、しかし躊躇なく避難を開始した。
部屋にあったシステムのHDDとSSDを二つずつケースから取り外し、ボディバッグにしまった。解析されるのは気分のいいものではないから、ハードは残らず物理的に処理したかったが、その時間はない。それでも、部屋に残されたハードから彼のビジネスやこれからの足取りを予測することは難しいはずだった。
それから普段の外出とそれほど変わらない持ち物をいつものメッセンジャーバッグに収め直した。そして、最低限の身支度が済むと、天井の隅に仕掛けたカメラを起動した。かなり慎重に家探しをしないと見つけることはできないだろう。手元のラップトップで動作を確認すると、そのラップトップもバッグに突っ込んだ。
サックスやキーボードが残されたままの部屋は、これで主を失うようには見えなかった。住み慣れた薄暗いワンルームをざっと見わたすと、信哉はケースに入ったオベーションとアレンビックを左右にぶら下げて部屋を出た。
目をつけておいた運送会社の営業所からベースとギターの配送を手配した。アレンビックのベースはPJに送る。店ではなくマスターの自宅だった。オベーションのギターの送付先は函館市内になっていた。
身軽になったタイミングで、信哉は仕事用のリストデバイスを使い、音声モードで電話をかけた。
電話に出たのは懐かしい声だった。寺岡の声は本当に喜んでいるようにも聞こえた。
「連絡くれたんですね、うれしいです」
「こっちこそ、ごぶさたしちゃってごめんな」
「とんでもないです。このあいだコージさんが突然来て、ノブさんに連絡取りたいって」
「あいつどこで何してたんだ?」
「わかんないですけど、ノブさんに謝りたいんだって言ってました」
「そうかあ、なんだかんだいっておれも気になってたしな。ちょっとムカつくけど意地張ってもしょうがないか」
冗談めかして信哉が言うと、寺岡が笑った。
「ノブさんっていまどこに住んでるんですか?」
信哉の胸に苦いものが広がる。が、彼はそれを無視して目論見通りに話を進めた。
「ああ、自由が丘の近くだよ。住所と連絡先教えとくわ。これの着信だと仕事用になっちゃうからさ」
仕事用のリストデバイスは追跡が効かないようにチューンされている。教えたのは別の回線の番号だったが、そちらの電源を入れておくつもりなかった。信哉は寺岡に住所を教えながら、どこか哀しく祈るような気持ちになっている自分に気づく。
「そういえばコージさん、いま北海道旅行してるって言ってました。ノブさんの実家にもいったみたいですよ」
「誰もいないのにな。少し前に引っ越したから」
あいつは、本当に帰ってくるつもりなんだ。でも、会いたい相手はおれだけじゃないはずだ。はるかを会わせてやらないと。
「おれもさ、いま留守にしてるんだよ。東京に帰ったらまた連絡するわ」
「――あ、はい」
寺岡がこの件に関わっているなら、GPS発信機だけが北海道に到着したことはすでに知っているだろう。しかし、信哉は何も匂わせることなく、釜をかけることもせずにそう話した。
「じゃあ、近いうちにまた」と、最後まで平静を装ったまま通話をオフにする。
あのバカ、話をややこしくしやがって――。信哉は、貢士があのおっとりとした調子で自分の育った町をぶらついている姿を思い浮かべた。
寺岡との通話を終えると、信哉は山手線に乗った。そして、品川よりも手前の大崎で降りて、りんかい線に乗り換えた。空路を利用するつもりはなかった。
その夜、彼が乗っていたのは、有明から那覇へ向かうフェリーだった。
気持ちを整える時間が、少しほしかった。
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