17

 タクシーのワイパーが動き始めた。雨の前にいつも感じる心身の変調が、その日はなかったことに貢士は気づく。

 二人は、函館の市街地でタクシーを降りた。北の街で降られる雨は不快ではなく、どこか軽やかに感じられた。夏の雨滴は澄んだ空気の中を舞うように降りてきて、肌で弾けた。

 日が暮れるまでにはまだしばらく時間がある。二人はホテルに荷物を置いて、再び街に出た。

「タイラは行きたいとことか決まってる?」

「函館に寄ろうとか自分で言っといてあれだけど、実はノープラン」

 碧の言葉に苦笑しながら、貢士は新幹線の駅でもらっておいた地図を広げた。

「班長は紙とか本とか好きだよね。あたしはナビないとどこにいるのかわかんなくなっちゃう」

「おれはこうやって広げてみないと、どっちにいくか決められないんだよ」

 碧はときどき雑貨店やカフェに目をつけては、興味のなさそうな表情を隠しもしない貢士を引っ張り込んだ。彼女と一緒に観光地を巡るのはなんだかおかしな気分だったが、貢士は久しぶりに自分の気持ちがほぐれていくのを感じた。


 そろそろ飲み屋にでも入ろう、という話をしているときに、貢士のリストデバイスに着信があった。寺岡だった。

「このあいだはどうも」

「こちらこそ。何かわかった?」

 ディスプレイに映った寺岡は困った様子で大げさに首をひねった。

「いやあ、難しいですね。昔のみんなにもいろいろ聞いてみて、行きつけの店とか楽器屋とかも行ってみたんですけど」

「もう東京にいないのかな?」

「どうでしょうね――」とすこし考えてから寺岡は言った。

「困ったのは竹内さんも同じような状況で、男はともかくですけど、女子たちも誰もつながってないみたいなんです」

「入院とか引っ越しとか重なってたみたいだもんね」

「ですね。それで切れちゃったみたいで。西野さん、覚えてます?」

「うん。元気かい?」

「あいかわらずでした。で、西野さん、ノブさんから本を借りてたらしいんですけど、返そうとしたらまったく連絡つかなくて、アパートも引っ越してたって」

 彼はもしかしたら自分にも連絡をしようとしたかもしれないと貢士は思い当たる。不義理をしたのは信哉とはるかだけではないのだ。

「おれと同じか」

「そうですそうです、西野さん言ってました。コージと同じかよって思ったって」

「謝らなくちゃいけない相手が増えた」

 貢士は隣にいる碧の方を見る。自分は何も聞いていないよ、という顔をして彼女は視線を外した。

「会ったら二人とも〆るからって言ってました」

 寺岡の言葉に碧がにやりと笑う。

「笑いながらですけどね。マジで会いたがってましたよ。あと、新藤さんとかサキちゃんとか、あの辺はネットでやりとりぐらいはしてたみたいで、みんな元気でした。でも、やっぱりノブさんと竹内さんだけつながってなくて」

「すまないな、いろいろ。いま北海道にいるんだ。ノブの実家にもいってみたんだけど、誰も住んでなかった」

「――そうですか。実家、函館って言ってましたっけ?」

「うん。でもここにはいないみたいだから、明日には苫小牧に移動する」

「旅行ですか?」

「そんなとこ。でも、ノブとはるちゃんはどうなるかわからないけど、みんなで集まれるといいな」

「せっかくですからね。また何かわかったら連絡しますよ」

 貢士がリストデバイスを切ると碧が言った。

「班長、ほんとにいっぱいお友だちいたんじゃん」

「ウソついてどうすんだよ。これでもそれなりに愛されてたんだよ」

「はいはい」

「まあ、影は薄かったけどさ」

 碧は何か自分にうれしいことがあったように微笑んだ。


 高級感とは無縁なビジネスホテルの一室だったが、貢士はそのそっけない清潔感が気に入った。現地のCATVはもう番組を終了してしまったのか、この街のどこかに設置されているらしいライブカメラからの映像を流し続けている。

 昔から旅先で宿泊すると、テレビのチャンネルを現地局に合わせ、深夜まで漫然と眺めていることが多かった。知らない土地の出来事が報じられ、地域では知られているのであろう老舗の和菓子屋や飲食店のCMが流れる。それはどこか懐かしさのようなものを感じさせた。なぜそんな気持ちになるのか、理由はわからない。あまりまじめに考えてみたこともない。

 貢士は冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出すと、再びベッドであぐらをかいて画面に映った風景を眺めた。街灯に照らされた歩道を人々が駅へと急ぎ、タクシーがハザードランプを点滅させながら停止しては、また走り去っていく。街はまだ眠っていないようだった。

 デスクに置いてあったリストデバイスがバイブレーションで音を立てた。

 さっきの連絡で、寺岡は信哉の行きつけの店に自分と貢士の連絡先を置いてきたと言っていた。緊張を感じながらリストデバイスを手にとった。

 が、発信者は隣室にいるはずの碧だった。

「なんか眠れないや」

「時間早いもんな。再構にいた時ならまだ帰ってないとかザラだった」

「だよねー」

 貢士は次の言葉を待ったが、碧は黙っていた。彼はベッドの上で壁にもたれて両脚を伸ばした。

「ラウンジでもいってみる? まだやってるだろ」

「ううん。やめとく」

「でも隣の部屋どうしでリストってのもなあ。しかも音声モード」

「だって浴衣だし、すっぴんだもん。いいよ、声だけで」

 貢士は話題を変えることにした。二人は、さっき食事をした居酒屋のメニューについて話し、包丁を握っていた板前が再構築委員会の上司に似ていたといって笑った。

 他愛のない雑談が途切れ、ふいに碧が言った。

「ちょっと壁をノックしてみて」

 貢士はもたれている壁をコンコンと軽く叩く。すぐに同じリズムでノックが返ってきた。

「やっぱり。いまベッド?」

「そうだよ」

 どうやら二人の部屋は壁を挟んで左右反転のレイアウトになっているようだった。

「うーん。なんか眠れそうな気がしてきた」

「ならよかった。おれも飲みかけのビール片付けたら寝るわ」

「おやすみ」というリストデバイスの碧の声と一緒に壁がコンコンと鳴った。

 貢士もノックを返し、通話をオフにする。

 デスクに置いた缶ビールを手に取ると、またベッドに戻り、もう一度そっと壁に背中をあずける。

 父が購入し、父が亡くなってからも姉が嫁ぐまで皆で暮らし続けた、郊外のささやかな建売住宅のことを、貢士は温かく思い出した。

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