7

 窓は開け放たれ、カーテンはタッセルで丁寧にまとめられていた。

 白いペンキが塗られた木製の窓枠には、厚みにむらのあるガラスがはめ込まれている。贅沢とは言えないのだろうが、古い洋館ならではの風情だった。

 竹内はるかは窓辺に立って雨を見ていた。

 霧のような細かい雨粒が、ときおり風と一緒に吹き込んできた。

 ――ちょっとくらい、いいよね。

 彼女は頬にかかる雨を微笑みで受けとめる。

 潮まじりの雨の匂いは、いつも最後に貢士と二人きりで出かけた日のことを思い出させた。


                   ◇


 一緒にアルバイトをサボった。単にそれぞれが違う理由をつけて休んだということにすぎなかったけれど、他愛のないウソが、はるかにはなんだか楽しいことに思えた。その日、二人が一緒にいるのを知っているのは信哉だけだった。

 借りものの少し古臭いセダンで、彼女が貢士の街に着いた。駅前のロータリーに車を停めたとき、雨はもう小降りになっていた。

 あまり大きくはないスーパーがあって、マンションが建ち並んでいる。駅前のファストフード店で高校生がいつまでもおしゃべりをしているような街だ。

 「海を見たい」と言い出したのは貢士だった。これまでもバイト仲間とプライベートで遊びにいったことは何度かある。たいていは貢士も一緒だった。けれど、二人きりは初めてだった。

 貢士が今日を特別な日だと考えていることは、はるかにもわかった。区切りをつけるとか、そういうこと。

 ――区切り? 何も始まってなんていないのにね。

 彼女はハンドルに手を置いて街の様子を眺めながら思う。

 そんなふうにいつも大げさに思い詰めてしまう貢士がなんだかおかしかった。けれど、そんなちょっとずれたまじめさは、なぜだか彼女をほっとさせる。

 マンションの一階にあるコンビニから貢士が出てきた。白いビニール袋をぶら下げている。

「遠いのに悪い。これ、好きなのとって」

 彼は助手席に乗り込みながら、ペットボトルが入った袋をはるかにわたした。

 整備された郊外の街は運転がラクだな、とはるかは思う。こういう街で暮らすのも悪くないかもしれない。

 彼女は、カーナビと土地勘のある貢士の指示でスムーズに住宅地を抜けた。そしてバイパスに入ると的確に加速して手際よく車線を変更し、あっという間に一番速い流れに乗った。

「やっぱり女の運転じゃないみたいだ」

「そうかな?」

 彼女の車はそのまま高速道路に入った。ここから先は彼女も以前に走ったことのある道だった。

 時折、ワイパーがフロントグラスをぬぐった。

「また雨。こないだと同じ」

「もうしばらくしたら上がると思うよ」

 首筋にまとわりつくような重さが今朝はなかったから、と貢士は言った。

 高速道路を降りると、車はいくつかの交差点を曲がり、海岸線に出た。とりあえずまず海までというのが、二人のゆるやかな予定だった。

「私が知っているお店いっていい?」

「うん。おれはこの辺ぜんぜん知らないもん」

 はるかはこじんまりとしたカフェの前でハザードマップを灯すと、思い切りよくハンドルを切って、あまり広くはない駐車場に車をバックで収めた。


 平日の湘南の海は静かだった。海岸線の近くまで迫る小高い山にはうっすらと靄がかかっていた。厚みにむらのある古い窓ガラスから見える景色は、にじむように歪んでいる。

 向かいに座っている貢士は、カフェの店内を見まわしている。あそこにあるアンティークのレジスターは使えない、とはるかは彼に教えた。

「ねえねえ」

 店内の様子に気をとられている貢士に声をかける。

「ん?」

「なんでもない。黙っちゃったから」

 彼は笑みを浮かべなら、今度は壁にかかった古い時計に目を止めた。こちらは現役だ。揺れる振り子を見つめながら言った。

「今日はムリいってごめん」

「そんなことないよ。私も楽しみだったもん」

 自分が付き合っている男のことを気にしているのは、はるかにもわかった。その男に妻子がいることまでは貢士には話していない。

「そうはいってもさ――」

「今日はコージくん的には割と特別な日なんでしょ? ずる休みまでしちゃって」

 はるかに笑われて貢士も苦笑する。

 カウンターの女性にしばらく車を駐車場に置いたまま歩いてきていいか尋ねた。雨の平日で客の姿もあまりない。三十分ぐらいなら、と応じてくれた。

 店を出ると、はるかは「けっこう寒いね」といってコートのファーを合わせた。

 海辺にも人影はほとんどなかった。

 コンクリートの足元を見ると、一段下がったところにはささやかな岩場が残されていた。潮が満ちればすぐに沈んでしまうだろう。

 はるかは岩場に降りて振り返り、貢士に手を伸ばした。彼は「いいよ」と笑ってぽんと護岸を降りてはるかの隣に立った。

「水、きれいだね。冬は」

 はるかは腰を落として水に触れながら「でも意外とあったかい」といった。彼女は浸した手を左右に振る。小さな子どものバイバイのようだ、と貢士がいう。

「ねえねえ」

「ん?」

「あのね、彼にはもうどっちでもいいやっていわれちゃった」

 貢士は、はるかの手元の水面から遠くの海へと視線を変えて言った。

「そういうのって、本気で言ってるわけじゃない気がする」

「そうかな。この頃、あの人が何を考えているのかわからなくなる」

「しばらく会えなくなる。だから今日は思い切って一緒に来てもらった」

「うん」

「はるちゃんたちがおかしくなったらおれも困る」

 はるかは男に妻子がいることを話そうか迷う。が、どうしても言い出せなかった。

「別に就職の件ははるちゃんに彼氏がいるからどうとかじゃないけど」

「クレーンの仕事、やっと決心ついたんだもんね」

「それに、女の子に振られるたびに仕事を変えていたら大変だ」

「それ、私?」彼女は吹き出す。

「私って、コージくんのこと振ったの?」

 貢士も笑う。

「今のままじゃダメだなってけっこう前から考えていた。しばらく会えないような仕事になっちゃったけど、たまたまだよ」

 はるかはもう何もいわなかった。

 大粒の雨が落ちてきた。

 二人はお互いに手を貸し合いながら岩場をこえて道路に上がり、手をつないだまま駐車場まで駆け戻った。

 首をすくめながら車の中に逃げ込むと、自分たちのあわてぶりがなんだかおかしくてまた笑った。


                  ◇


 はるかは、そこで記憶をたどるのをやめて引き返す。

 雨粒が少し大きくなった。ぱらぱらと窓の上の庇から音がこぼれる。

 貢士がアルバイトを辞めてからのことは、あまり思い出したくないといつも思う。彼女はいつもそこでスイッチをオフにして記憶の中から帰る。

 まだ窓を閉じる気になれなくて、遠くを眺める。海はうねっている。少し緑がかった灰色のうねりの中に三角波が白く立つ。波が溺れているみたいだ、と彼女は思う。

 少し横になりたい――彼女は窓を閉じてカーテンを引くと、ベッドに向かう。

 彼女は虚無のような眠りに就く。

 彼女にはそれができる。

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