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碧は学生課の受付で入学金と受講料の支払いを済ませた。しばらく待つと、職員の女性からIDカードを手渡され、同時にリストデバイスにもデータの着信があった。
「こちらで今日から校内の施設は自由にご利用いただけます」
「ありがとうございます」碧はよそ行きのトーンで礼を言った。
学生課とはいっても、社会人向けのコースも設けられた専門学校だから、対応なんかやたら丁寧だし、受付のおねえさんだってムダに美人なのだ。くだらないことを考えながら、キャンパスをふらりと回ってみる。
複合型の高層ビルの内、三つのフロアが専門学校のキャンパスだった。まだ昼間だから社会人はほとんど見当たらず、学生はみんな碧よりも少し若い。
高校を卒業してすぐにこうできればよかったのに、と彼女は思う。けれど、叔父の安田が再構築委員会で働けるよう便宜を図ってくれたおかげで、手元には少しまとまったお金が残った。
――これでよかったんだよ、ね。
学生ラウンジの椅子に腰かけて、周りには聞こえないように小さくつぶやく。
「それじゃっ秋からよろしくぅ」
ラウンジのテーブルをぽんと叩いて碧は立ち上がった。
専門学校の入学手続きを済ませてしまうと、その日もまたやることがなくなった。
しばらくぶりに戻った東京の生活は、とりたてて充実感があるわけでもなく、それでいて時間の流れだけが速いように感じられた。自分でも予感はしていたが、こうも他愛なく流れに呑まれてしまうとなんだか悔しい。
碧はコーヒーショップのカウンター席から雑踏を眺める。
こんなにいろいろなものがあって、こんなに賑やかなのに、自分にはあまり関係のないことばかりだ。そもそもどこにいったってあるのは同じような店だし、どこにいってもテンションが同じなのだ。
違う景色が見たくてバスに乗れば、このあいだみたいなことになるし。
これだったら班長とよく一緒にお昼ごはんを食べた埼玉の小さな町のほうがずっとよかったな。中華屋のおばちゃん、元気かな――。
心の中でぶつぶつとつぶやきながら、ふと思い当たる。そうだよ。仕事辞めてから毎日ひとりだもんな。
これからデザインの勉強を始める。でも、本格的なカリキュラムは来年の春からだった。それまでのつなぎのつもりで、今日は半年間のセミナーも申し込んだ。けれどそれだって開講はまだ三週間ぐらい先の話だ。それまで、こんな調子でひとりの時間が続くのだろうか。
碧は唇をきゅっととがらせてすねたような表情をつくった。そして、わざと小さく声に出してひとりごとを言ってみる。
「ところで班長さんはどこで何してるんでしょうかね」
やっぱりどうかしているな、と自分の声を聞いて苦笑する。
――帰ろうか。
でも、つい一昨日だって場所は違うけれど、同じチェーンのコーヒーショップで、似たような雑踏を眺めて過ごし、同じようなことを考えながらアパートに帰った。
自分を持て余すような気分でコーヒーショップを出た。
頬にぽつりと雨粒を感じた、と思うとすぐに雨脚はみるみる強まった。周りの人々が小走りに道を急ぎだす。碧も一緒に走った。
彼女は地下鉄の入口に駆け込むと、背負っていたデイパックからハンカチと一緒にスマートホンの本体を取り出した。
「同じことをくりかえしていてもしょうがないもんね」
彼女の声が聞こえたのか、隣に立っていたビジネスマンがちらりと碧を見る。
またひとりごと出ちゃったよ。
彼女は心の中で舌を出す。
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