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部屋は十二畳ほどの縦に奥行きのある洋室だった。
長い壁面に沿って雑多な電子機器が並んでいた。今ではマニアぐらいしか部屋には置かないデスクトップのコンピュータ。ギターアンプ。シンセサイザーをハードで所有している者も今ではたぶんそう多くはないだろう。
電子機器とはいっても、どこかアナログな雰囲気を纏ったものばかりだ。そして、部屋の奥にあるスタンドにはアレンビックのベースが立てかけてあり、床に無造作に置かれた黒いケースの中身はオベーションのギターだった。
その反対側の壁にはデスクが並び、大小五枚のモニターが置かれている。雑然としてはいるが、全体のトーンは奇妙に統一されていた。
代田信哉はモニターの前から立ち上がると、デスクの上に置いてあったA3サイズの企画書を折らないように曲げて書類袋に収め、空いた隙間に小さなデバイスを入れた。パソコンからそのまま引き抜いてきたような記憶ドライブだった。
書類袋と自分用に用意したもう一冊の企画書をメッセンジャーバッグに入れた。
玄関のドアを押し開けると共用廊下からはアパートや一戸建てが建て込んだ街が見えた。すべてが霧のような雨で煙っていた。
彼はすでに履いてしまったランニングシューズのままでいいと判断した。彼の古ぼけたマンションから駅まではそれほど遠くない。若者に人気の街というイメージからは少し遠いごちゃごちゃとした住宅地の細い路地を歩く。昼間に人とすれ違うことはほとんどなかった。
二駅だけ電車で移動した。晴れた日なら自転車でも構わないような距離だ。その駅前のコーヒーショップに“打ち合わせ”の相手が来ているはずだった。
店内を見まわし、相手がいることを確認する。服装などの特徴は事前に知らされていた。
信哉よりもいくつか歳が上だろう。三十代と思われるスーツ姿の男だった。ややカジュアルに外したコーディネートは広告代理店の営業マンを思わせた。
信哉は自分の分のコーヒーを買い、テーブルに向かった。
「お世話さまです」
にこやかに声をかけると男は「どうもですぅ」と語尾を伸ばして笑顔で答えた。やはり初めて見る顔だった。
信哉は書類袋から取り出した企画書を相手に手渡し、自分も企画書を開いて内容について手短に話した。
説明を終えると「どうぞ」といって書類袋も男に譲りわたし、自分用の企画書は再び折り目がつかないようにまげてバックに戻した。
「ありがとうございました。お預かりします」
男は、ちらりと袋の中をのぞいてから企画書を入れた。そして、「あとこれ、読んでおいてください」といって自分の鞄から出した封筒を差し出した。
「了解です」
信哉も相手から渡された封筒のなかを見てからバッグにしまった。
「イシダさんはすごいって噂をよくうかがってます」
石田というのは信哉の偽名だった。信哉は男の言葉に軽い緊張と苛立ちを覚える。「どうも」とだけそっけなく答えた。
男は信哉の内心に気づいたふうもなく笑顔で立ち上がり、「よろしくですぅ」とあいさつをして店を出ていった。
“打ち合わせ”の演技は、お互いに及第点だった。ただ、男の軽率さがどこか心に引っかかった。
信哉は、ほとんど口をつけていなかったコーヒーをすすり、店内の様子をそれとなくうかがった。男の後について出ていった者も、自分を注視している者も、とりあえずはいないようだった。
トレイを返却口に運び、彼もコーヒーショップを出た。駅前にある書店に入り、雑誌を立ち読みしながら再度あたりを観察する。
きりがねえ、という心の声が、いつも彼のひとつの区切りになっていた。それはあきらめではなく、「もう大丈夫だ」という直感が発する声だった。
信哉はベースギターの専門誌を買った。紙の本なんて久しぶりだ。妙に重くなったメッセンジャーバックを閉じながら駅の改札口へと向かった。
“
人格型の簡易AIは複製が比較的容易だったが、行政の管理下に置かれていた。無認可で運用すれば、違法薬物と似たような処遇を受ける。要するに役所というのは欲望を管理するのが仕事なのだ、と信哉は思う。
今日、記憶ドライブに格納されて彼の手を離れた“
世間にはさまざまな嗜好があり、その時その時の流行があった。しかし、ムーブメントも一巡し、AI風俗嬢の容姿や性格もひと通り出揃った感がある。
信哉が手がけた彼女たちは人気があった。
システムやプログラミングに関する知識は当然求められる。が、最終的にクオリティを左右するのはクリエイターのセンスだった。彼のアーティスト気質と女性型簡易AIは相性がよかった。そして、彼が偶然発見したいくつかのアイデアも、その完成度を飛躍的に高めた。
時折、摘発騒動があった。
中間に何次くらいの業者が入っているのか、信哉にもはっきりとは把握できなかった。さっきの男もあれからまたどこかの街に出かけていき、同じような“打ち合わせ”をするだろう。数日かけて、それが何度か繰り返される。
以前に大規模な摘発があってから、オンラインでの取引はまずない。サービス提供も彼が知る限り店舗型が基本だ。時代に逆行しているようだが、それでも客がくる。
ただ、信哉のようなクリエイターに捜査の手が及ぶことは稀だ。狙われるのは末端のサービス提供者と今日の男のような仲介業者だった。腕のいいクリエイターは、いってみれば業界の共有財産だった。ここが潰されては商売が続かない。おいそれと捜査側に売るわけにはいかなかった。
そして、信哉が流れの最上流だと踏んでいるいくつかの組織まで捜査の手が及ぶこともほぼなかった。
彼自身は異様なほど慎重に活動を続けてきたが、一方ですべてを押さえることはそう難しいことではないはずだと半ば覚悟もしてきた。けれど、摘発がある度に自分と最上流はそのままに、途中のパイプだけが付け替わっていく。
おれの知ったことではない――そう思いながらも、かいま見える裏側に彼は妙な無力感と苛立ちを覚えるのが常だった。
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