5

 銀座で「晴海埠頭」行のバスを見かけた。平良碧は、そのバスが出ているらしい停留所に行き、次の便を待った。「埠頭」なのだから、きっと海が見えるだろう。東京湾でもかまわない。

 やってきたバスに乗り込むと、彼女はものの数分もしないうちに見覚えのある、でもあまり見たくなかった風景の中に運ばれてしまった。

 ――うへ、ここ通るんだ。

 彼女は舌打ちをしたいような気持ちになる。

 再構築委員会を退職してからしばらく、彼女は都心をあちこちうろつきまわっていた。それほど東京には詳しいわけでもなく、ましてや地理的な関心なんてない。それでも、なるべく近づかないようにしていた場所があった。隅田川の近くだった。

 バスが勝鬨橋を渡る。

 ――近かったんだな、ここと晴海って

 あの夜、この橋の上にいた。


                   ◇


 あの男は何の知らせもなく急に月島に引っ越し、「話がある」といって碧を呼び出したのだ。

 夜になっても、まとわりつくような空気は変わらなかった。水辺なのに風も流れないその夜を碧は「大嫌いだ」と思った。

「わかってほしい」と男はいった。

 男と碧は、ほとんど同時期に島から東京に出てきた。碧が後から追う形にはなったが、いっしょに上京してきたというのが彼女の気持ちだった。

 ――いわれなくたって、わかってやるよ。

 声に出そうとすると、まぶたに熱いものがにじんであわてて目を閉じた。こらえてからまた目を開くと、黒々とした川面に高層マンションの灯りが揺れていた。

 ――飛び込んじゃおうかな。

 けれどそんなことをしたって、さっきのよそよそしい目がもっと冷たくなるだけだろう。なんかもう、ばかばかしいや。

 彼の新しい女は出版関係の人間だった。彼よりも年上でそれなりの立場にあることも聞いた。自分のことも、彼のことも、情けなかった。

「イラスト、がんばって続けて」

 やっとそれだけを突き放すようにいって碧は歩きだした。そしてすぐ「しまった」と思った。これ帰り道と反対じゃん。

 みっともないが振り返って戻り、男の脇を通り抜ける。一瞬、彼の表情が視界に入った。碧は黙ったまま、彼を置いて歩き去る。

「違うよ。駅がこっちなんだよ、ばか」

 小声で口にすると涙が止まらなくなった。ばかっ! ばかっ! ばかっ!


 それから数日間、碧は外に出なかった。アルバイト先には体調が悪いと連絡を入れて休んだ。クビになるならそれでもいいや、と思った。

 スマホのバイブレーションが時々音を立てた。鳴っている最中は目をそむけ、後から着信を確認すると、それは友人だったり、母親だったりした。あの男であったことは一度もなかった。

 あの時と同じ土曜日の夜が来て、碧はコンビニエンスストアに行った。

 買ってきた甘ったるい缶チューハイを飲みながら他愛のない動画を眺めていると、また涙が止まらなくなった。スマホが音を立て続けたがやっぱり放っておいた。

 何度目かのバイブ音が止むと同時に、今度はいきなりインターホンのチャイムが鳴った。不意を突かれて彼女は驚き、跳ね上がるように立ち上がった。

 モニターをのぞくと、そこにはしばらく会っていなかった叔父の姿があった。

「はい――」

 鼻づまりの涙声が気まずい。

「おれだ、伸二。家にいたか。よかった」

「急にどうしたの?」

「どうしたのじゃねえよ。母さんが様子見てきてくれって連絡よこしたぞ」

 碧は少しうろたえた。普通なら母が東京の親族に何かを頼むようなことはまずない。母は碧が生まれるずっと前に沖縄に移住した。駆け落ち同然だった。

「ごめんなさい。いま開ける」

 すん、と鼻をすすりながら、彼女はオートロックの解錠ボタンを押した。


 ひとりで酒を飲んでいたことをとがめられる気がして、碧はおずおずと腰の引けた思いでドアを開けた。

 案の定、安田はちゃぶ台に載った缶にすぐに目を止めた。

「お、いいねえ。おれのもあるか?」

 碧が「うん」といった時にはもう彼は冷蔵庫の扉を開けていた。

「腹も減ったな。おー、いいのがあるじゃんか」

 安田は、碧の母が時々送ってくるランチョンミートの缶を手にすると「キッチン借りるぞ」といってフライパンをコンロに置いた。

 スライスして軽く炙ってあるだけだったが、碧はランチョンミートをひと切れ、またひと切れと立て続けに口に運んだ。

 おいしかった。

「おれの分も残しとけよ」

 笑いかける叔父にもぐもぐとランチョンミートを頬張ったままうなずくと、また涙が浮かんできた。

 子どもの頃からこんなことが何度もあった、と碧は思う。なぜか食事中に泣き出してしまう。心が無防備になるせいだろうか。

 いつも、悔しいことがあった後だ。

「なんで。なんで、いつもこうなのかな」

 また何かが溢れてきてしまう。

 聞こえているのかいないのか、安田は黙って皿に箸を伸ばした。

「なんでこんなことばっかなんだろ」

 すすりあげ、声が震える。

「あたしもうやだよ。なんでいつもこんななんだよ」

 安田はもうひと切れ口に入れると、碧のほうに皿を押し戻した。

「あとぜんぶミドリが食っていいぞ」

 うつむいた顔の前に突き出された皿を見て、碧は我に返る。

 なんだか急にばつが悪くなった。

「うへへへ、かっこわるすぎ」

 うるんだ涙声で笑うと彼女はティッシュの箱を膝に抱えてくすんと鼻をかんだ。

 安田が言った。

「母さんがあっちでずっと苦労してきたのは分かってる。ミドリも大変だったんだよな」

 彼女はこくりとうなずく。

「でも、自分の力で東京に出てきた。おれにぐらいは頼ったってよかったんだ」

「ママ、もう東京には迷惑かけたくないっていつもいってた」

「だろうけどよ」

 安田は「にしても甘いなこれ」と飲みかけの缶チューハイをしかめ面で飲み干した。

「でな、母さんにはおれからあらためて話すけど、今ならちょっとした就職先を紹介できる。普通のOLさんってわけにはいかないが待遇は悪くない」

 唐突な話に、叔父が何をいっているのか飲み込めない。碧は黙って叔父を見た。

「絵を描きたくてこっちに来たのはおれも知ってる。でも、しばらく働けばやりたいことをやれるくらいの金は残せると思う」

 かちっと音を立てて、何かが碧の心の中で切り替わる。

「お前はもう、自分の力で変えられるんだ」


                   ◇


 バスは見覚えのある風景を後ろに残してゆっくりと広い通りを進んでいく。建ち並ぶマンションの隙間からところどころ、晴天を映して意外なほど青い海が見えた。

 終点に着いたらあそこに泊まっているでっかい船をちょっとだけ見てすぐ帰ろう、と碧は決めた。

 やることは、いろいろあるんだ。

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