・10-16 第162話:「祝賀会のあとに:3」

「お断りいたします」


 出てきたのは、短い、拒絶の言葉。


「余にとっても、我が国にとっても、貴国との友好関係は重要なものです。

 ですが、そのために我が忠良な臣下を売り渡すような真似は、主君として到底できません。

 それに……」


 この一言で、せっかく築き上げた友好が失われてしまうかもしれない。

 その危惧に身体を強張らせ、止まらない冷や汗を流しながら、少年はちらり、と、不安そうな顔でこちらを見つめている少女の姿を見やる。


 そして、———自身の気持ちに揺らぎがないことを確かめたエドゥアルドは、あらためて断言した。


「このメイドは、———ルーシェは。

 余にとって、必要不可欠な存在なのです」


 その言葉を聞き、もっとも驚いた表情を浮かべていたのはハインリヒ公爵だ。


 政治の世界においては、政略結婚は当たり前。

 まして、一介の平民に過ぎない使用人ごとき、他国の要人が「欲しい」と言うのなら、なにを躊躇ためらう必要があるのか。


 そんな認識でいたのだが、国家元首であるエドゥアルドがこうもはっきりと、強力に拒絶を表明したのは、意外だったのに違いない。


 肝心のナッジャールの反応はというと。


「……ふふっ! 」


 笑っていた。


「いや、大変失礼いたしました。

 代皇帝陛下にも、そしてもちろん、そちらのメイド、ルーシェ殿にも」


 それからソファから立ち上がった彼は、その場でひざまずき、まずはエドゥアルドへ、次いでルーシェへと、丁重に頭を下げて謝罪をする。


「もちろん、先ほど申し上げたことは、本心でございました。

 わたくしは、ルーシェ殿に側にいていただきたかった。

 ———しかし、本当はもっと、別のことを確かめたかったのです」

「別のこと? 」


 もっと、怒るなり、残念がるなり、そういう反応を想像していた。

 しかしどうにも上機嫌な様子のサーベト帝国の全権大使に、代皇帝は困惑の視線を向けざるを得ない。


「それは、代皇帝陛下のお人柄です」


 その視線を真正面から受け止めつつ、ナッジャールは物おじせずに言葉を続けた。


「今回の講和条約、わたくしどもが考えていた形とは少々、異なるものとなりましたが、十分に満足できるものとなりました。

 さらには、代皇帝陛下におかれましては、約束通りに我が国をご支援いただく、そのご意思をお持ちである様子。

 まことに、感謝に耐えません。

 しかしながら、———それが、空手形になる恐れもございました」

「それは、絶対にありません。

 我が名誉に誓って」

「はい。おかげさまで、わずかばかりの懸念も、すべて払拭できました。

 代皇帝陛下。

 エドゥアルド様は、嘘を吐かれるようなお方ではない。

 何しろ、自らの使用人に過ぎない者でさえ、それが道理に反すると分かれば、必ずお守りになられる。

 主君としてこれほど誠実なお方が、一度交わした約束を、自らがサインした合意文章をないがしろにするはずがございません。

 これでわたくしは、すっかり安心して、祖国に戻ることができるようになりました」


(僕は、試されていたのか)


 そう思うと、少なからず不愉快ではあった。


 なにしろ、エドゥアルドは本気で危惧していたのだ。


 一介の使用人に過ぎないとはいえ、本人の意志(ルーシェは明らかに乗り気ではなく、戸惑っていた)を無視して、まるで[物]のように売り買いすることなどできない。

 絶対に、したくない。


 だが、ナッジャールの申し出を断れば、せっかく修復された二つの帝国の関係が破綻はたんしてしまうかもしれない。

 ———その、深刻な恐怖を抱きながら、それでもエドゥアルドは明確な拒絶を示してみせたのだ。


 自分にそれほどの覚悟をさせたというのに、「試しただけ」とは。

 なんとも、められたものだ。


 だが、その怒りはぐっと飲み込み、溜息と共に吐き出す。

 少なくともナッジャールは真摯しんしに、しかも代皇帝である自分だけではなくメイドに対しても丁重に頭を下げて謝罪してくれた。


 それに、彼がそんなことをした気持ちも、わからないではないのだ。


 これまで友好的に接してきたが、二人は結局のところ、友人などではない。

 確かに少なからず好意を持ってはいるものの、それでも、互いに国を背負っているという立場がある。


 二人ともそこから離れることはできないし、常に頭の片隅にその事実を置いている。

 だから、他人から見ればリラックスしてにこやかにしているように見えても、そこにはいつも一線が引かれており一種の緊張が保たれていたし、その一挙手一投足、言葉の端々には、自国にとって不利益とならないようにという配慮がにじみ出ている。


 つまり、互いに、素の相手のことなど分からない。

 建前で何重にも塗り固められた化けの皮の下の本心は、知らないのだ。


 公式文章にサインをする。

 これはその効力を保証するものではあったが、———極論すれば、所詮しょせんは紙切れに過ぎない。


 絶対に約束を違えない、と誓い合っておいて、後になって状況が一変すれば、簡単に無効化されてしまう。

 そんなことは、歴史を見ればありふれている。


(考えてみれば、ナッジャール殿は、国家の存亡を背負ってここにおいでなのだ。

 僕のことを試したくなるのは、当然かもしれない)


 サーベト帝国はザミュエルザーチ王国からの侵攻を受けている最中だ。

 そんな情勢で、もし、タウゼント帝国が裏切ったら、どうなるのか。


 想像するだけでも憂鬱ゆううつになる、最悪の事態だろう。


 そしてそれは、決して、あり得ない、というわけではない。

 条約に合意した直後は履行するつもりがあったとしても、その後の情勢の変化で、方針が変わるかもしれない。


 本当に、信じてもよいのか。

 その確証を欲しいと思うのは、人情として、政治家として、十分に共感できる思いだった。


「少々驚きましたが……、こういったことをなされたお気持ちは、理解できる気がいたします」


 怒りの感情を押し殺し、ナッジャールのことを許そうと決めたエドゥアルドは立ち上がると、歩み寄り、右手を差し出す。


「ですが、ご安心ください。

 僕は、このような人間なのです。

 約束したことは、必ず、お守りいたしましょう」


 自称に、敢えて[余]ではなく[僕]という、普段使いのものを用いる。

 素の、自分を見せる。


「ありがとうございます、エドゥアルド殿」


 その意味に気づいたナッジャールは、嬉しそうに笑うと、固く手を握り返して来た。

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