・10-17 第163話:「小さな棘:1」

 騒動はあったものの、サーベト帝国の全権大使・ナッジャールとの最後の夜は、無事に終わった。


「名残惜しいので、ぜひ、もう一杯」


 どうやらルーシェを連れて帰りたいというのは言葉通り本心であったらしく、やや未練がましい所も見せた黒髪の青年は何度もコーヒーのお代わりを所望したのだが、さすがに夜も更けて来ると引き下がらざるを得なかった。


 なにしろ、明日は朝早い。

 一刻も早く本国へ帰還するため、すぐに出発する予定になっているのだ。


 当然、エドゥアルドたちも早起きしなければならない。

 国賓こくひんとして出迎えているのだし、今後のサーベト帝国との関係を考えると、ナッジャールのことを直接見送りたいからだ。


 ズィンゲンガルテン公国での滞在場所としてハインリヒ公爵が用意してくれた部屋に戻ったエドゥアルドは、すぐに休むために着替えをすることにした。


「はぁ……。今日は、疲れたな」


 思わず、溜息がれる。


 今回の講和交渉。

 重要性は十分に認識して臨んだものだったのだが、ここまで難しいものになるとは、想像できていなかった。


 最初にこちら側から提案した条件は、タウゼント帝国側が明確に勝者であることを示しはするものの、十分に譲歩じょうほしていた。

 だから相手にも簡単に受け入れられるものだと思っていたのだが、こうも、対応に苦慮する対案を示されるとは。


 ルビーセア、ロアーチク、ロスベニー、テネモンログ、マドニーア。

 サーベト帝国が割譲かつじょうすることとなった、五つの地域。


 開発が進んでいないために経済的に貧しく、独立志向の強いこれらの地域を受け取ることは、タウゼント帝国にとっては必ずしもプラスにはならない。

 領土が増えても、その質に問題があれば、それは前進とは呼べなかった。


 統治が難しいのならいっそ、現地の人々が望む通りに、独立させてしまえばいい。

 そうすれば彼らはみなエドゥアルドに好意をもってくれるのに違いなく、しかも、二つの帝国が直接国境を接することもなくなるから、将来、深刻な対立に発展する可能性を小さくできる。


 それは、発想の大転換だった。

 そのおかげで、独立運動という難しい課題を抱え込まずに済み、おまけに、強固な友好国を増やすことができる。


「ルーシェにも、ずいぶん、苦労をかけてしまったね。

 ありがとう」


 寝巻への着替えを手伝ってもらいながら、自然に感謝の言葉が出て来る。


 今回の交渉では、彼女が果たした役割は地味に大きかった。

 そのコーヒーの腕前と明るく朗らかな性格はナッジャールを楽しませ、友好的な雰囲気で交渉を進めることに役だったし、なにより、緩衝国を作るという発想に最初に気づいてもくれた。


 もし、このメイドがいなかったら。

 もし、あのままサーベト帝国に連れていかれてしまっていたら。


(なんだろう? )


 チクリ、と、心のどこかにトゲが刺さっているような、違和感がある。


 おかしい部分は、他にもあった。

 ルーシェが、大人しいのだ。


 いつものように手際よく手伝ってくれているが、しかし、様子がいつもと違う。

 普段ならこんな風に「ありがとう」とエドゥアルドに言われたら、もっとにこにことした笑顔で、嬉しそうにしているはずなのに。


 今は、黙り込んだまま。

 どこか青ざめたような顔色で、表情が強張っている。


「ルーシェ。大丈夫かい?

 もしかして、疲れたのか? 」


 心配になってしまう。


 思えば、メイドにはいつも苦労をかけっぱなしだ。

 日常的な生活の部分でも彼女がいなければ成り立たない部分が大きかったし、今回はエドゥアルドのことだけではなく、ナッジャールのところにも度々コーヒーを淹れに行っていた。

 会談の席でも、そしてその後の祝賀会でも、ずっと働き通し。


 ルーシェにはワーカホリックの気配があり、じっとしているより働いている方が落ち着く、という性分なのだが、さすがに忙し過ぎだったのではないか。


「いえ、その。

 疲れてはいないのです。

 このくらいは、全然、平気、です」


 少女は小さく首を左右に振った。


 だが、それ以上は言葉が続かない。

 なにか思うところがあるのに違いなかったが、ぐっとこらえて、飲み込んでしまっている。


 自分は、メイドだから。

 仕える相手に心配をかけるわけにはいかない、と、遠慮しているのだろう。


「なんだい? 言ってごらん? 」


 できるだけ優しい口調で、問いかける。


 明らかにルーシェの様子はいつもとは違っていた。

 絶対に、何かがある。

 大丈夫なはずがない。


 もし、彼女が悩んでいて、それが自分にも力になれるような類の事柄だったら、力になりたい。


 ノルトハーフェン公爵家の当主が、代皇帝が、一介の使用人のためにそんな風に考えるのはおかしなこと、あり得ないことなのかもしれない。

 だがこれは、紛れもないエドゥアルドの本心だった。


 その口調から、それが伝わったのだろう。


「エドゥアルドさまっ! 」


 一瞬うつむき、すぐに顔をあげたルーシェの、濃い青色の瞳を持つ双眸そうぼうには、涙が浮かんでいた。


「私……っ!

 こわかった!

 こわかったのでございますっ! 」


 胸の内から湧き上がって来たその言葉は、震えている。


「急に、ナッジャールさまがあんなことをおっしゃってきて!

 もしかしたら、私、サーベト帝国に連れていかれてしまうかもって、思って!

 ナッジャールさまは、いい方だと、素敵だとは思います!

 だけど、急に、あんなことをおっしゃられても、ルーは困ってしまいます!

 知らない、遠くの国に行くことになったら、どうしようって!

 エドゥアルドさまや、みんなと離れ離れになったらって、想像したら!

 寂しくて、死んでしまいそうで!

 ルーは、ルーは……っ!

 こわくて、仕方がなかったのですっ!!

 だって、私は……っ!

 貴族でも、なんでもない!

 ただの、ただの、メイドだから……っ! 」

「ルーシェ! 」


 思わず、少女のことを抱きしめる。

 その全身の震えを、なんとか止めたくて。


「ルーシェ」


 急に抱きしめられ、息を飲んで黙り込んだメイドの名を、彼女にだけ聞こえる声で呼ぶ。


「大丈夫だよ。

 安心して欲しい。

 僕は、そんなことは絶対にしない。

 ルーシェが、心の底からそれを望んだりしない限りは、絶対に」


 そこには、一切の偽りなどない。

 そのことは、互いに触れ合った感覚を通して、確実に伝わったはずだ。


「それは……、どうしてで、ございますか? 」


 それでも、メイドはたずねる。

 理由を。

 主君が、エドゥアルドが、自分を手放したりはしないと、見捨てたりはしないと、そう信じられるものを欲して。


(それは、もちろん———)


 少年はすぐに彼女を安心させたくて口を開きかけるが、言葉を詰まらせる。


(もちろん、———なんだ? )


 驚いたことに。

 咄嗟とっさに、言葉が出てこなかったのだ。

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