第一部:宿敵
第1話 オークの武術家、グロウ=ザン
「武術とは何か」
威厳あるゴブリンの声が洞窟に響いた。
ゴブリン。
下級魔族の中でも下っ端中の下っ端。
それが、上級魔族ですら跪きそうな威厳ある老師の声で言った。
「……弱者の修める技術です」
答えたのはオークだった。
ゴブリンと同じく下級魔族。
力仕事や雑兵に重宝される種族である。
彼は頭を垂れ、老師ゴブリンの前に跪いていた。
「弱者とは」
「人間です」
「然り。面を上げよ、グロウ=ザン」
グロウ=ザンと呼ばれたオークが頭を上げた。
──奇妙なオークだった。
眼光が鋭い。
理性の欠片も感じられぬ、欲望でどろりと濁ったオークの目をしていない。
その頭を支える筋肉も鋭かった。
鋼よりも年月をかけて精錬したのであろう肉の鎧が、彼を覆っている。
グロウ=ザンは真っすぐと老師ゴブリンを見据えた。
「ではおぬし、何故”武術”を習得した」
「弱者だからです」
「おぬしが人間と?」
「違います。ですが……」
グロウ=ザンは目を閉じ、思い出す。
己よりも圧倒的に強い人間に敗北した、あの日。
結果的に偉大なる魔王の軍が勝利したにも関わらず、あの敗北の味が忘れられない。
あの日から、グロウ=ザンはただのオークとして生きられなくなってしまった。
「そうしなければ、勝てぬと理解したからです」
「然り」
老師ゴブリンはぴしゃりと言った。
「ワシらは弱い。ワシらは本来兵士として消費される身。聡明な頭脳はおろか、言葉すら必要とはされない」
「しかし私達は身の丈に合わぬ知性を獲得してしまいました」
「そうよのう。故に」
老師ゴブリンは指で石ころを弄ぶ。
石ころは彼の手元で転がり、弾かれた。
びゅん、と石が空気を切り裂く。
グロウ=ザンはそれを掴み、粉々にした。
ぱらぱらと石だったものが地面に落ちる。
「目指したくなってしまうものじゃのう、強者」
「ええ」
二人はにぃと歯を見せて笑った。
──強者。
本来、魔族というのは生まれであらかた立ち位置が決まる。
生まれ持った魔力量、生まれ持った魔術式、そして生まれ持った知性。
魔族たちは皆生まれた瞬間からどう生きるべきかを定められ、そして力のままにそれを謳歌する。
だが時として、木端である筈の下級魔族の中にイレギュラーが現れる。
生まれ持った魔力量が莫大なゴブリン。
生まれ持った魔術式が凄まじい性能を持つオーク。
そういった者達は魔王軍に重宝され、上級魔族と肩を並べられることを許される。
だが、生まれ持った知性が並外れなものだった場合……しかも、特に魔術などに優れていなかった場合。
そういった者は表面的には魔王軍に重宝こそされるものの、上級魔族には疎まれ良くて中級の厳しい立場に置かれることになる。
下級魔族のように何も思考せず欲望のままに行動することを躊躇うが、かといって上級魔族たちのような圧倒的な強さを持つわけでもない。
そういった魔族たちの末路は目に見えている。
誉なく下級魔族たちと一緒に死ぬか、身の丈に合わぬと上級魔族に切り捨てられ死ぬか。
それが彼らの運命である。
グロウ=ザンは先の人間との戦争でそれを噛みしめた。
だが、それだけならまだ良かったのだ。
それだけであれば──
「人間というやつが鍛錬で強くなった以上、ワシらもそれを実行できんか……と、考えたワケじゃったが、正解じゃったな」
「簡単ではありませんでしたが」
「うむ。故にグロウ=ザンよ」
老師ゴブリンは長い顎髭を撫でながら、グロウ=ザンを見据えた。
彼と同じく、鋭い目つきであった。
「ワシらが魔族の中でも異端ということを忘れることなかれ。魔王様の秩序はいずれ魔族社会すら変えるじゃろうて。その時に不必要な者といえば……」
「私達、ということですか」
「そうじゃ。身の丈に合わぬ強さを持ち合わせた下級魔族。しかも魔族の誇る魔術で強いわけではないときた。殺されるぞ」
「……その時は、返り討ちにするというのも面白いかもしれませんな」
「言うようになったの、グロウ=ザン」
老師ゴブリンは楽しそうに笑った。
「その時が来たら始めるかの、魔王様への叛逆を」
「畏れ多いですがね」
グロウ=ザンも笑った。
身の丈に合わぬ強さをつけた二人の下級魔族は、共に一夜を楽しんだ。
それが、グロウ=ザンが老師ゴブリンと過ごした最後の夜だった。
◆
「ローシ……」
墓の前にゴブリン数匹が群がっていた。
老師ゴブリンの死は、彼を慕っていた温和なゴブリンたちを深く悲しませた。
死因は分かっていない。
ゴブリンたちには分かろうはずもない。
ただ老師は死んだという事実だけが、ゴブリンたちの頭にあった。
「簡単に死ぬ老いぼれではなかったはずだが」
そこに肉の鎧を纏ったオークが現れた。
グロウ=ザンである。
彼は老師が生前好きだった人間の酒造した酒を花束めいて持っていた。
「……イイサケダ」
ゴブリンの一匹が声を掛ける。
それに頷きながら、グロウ=ザンは墓の前にその酒を供えた。
「地獄にも酒は必要だろう」
「ゴブリンにか?」
グロウ=ザンは振り返る。
彼の背後にいたのは、仕立ての良い鎧を着た褐色肌の耳長女であった。
ダークエルフ、と呼ばれる上級魔族である。
彼女の鎧には「黒の軍団」の意匠。
魔王軍の精鋭騎士団に所属する剣士の一人だった。
彼女は配下らしき魔族の剣士たちを背後に待機させ、近づいてきた。
「……魔王様に貢献したからな」
「魔王様に貢献? ゴブリンの老人が?」
ゴブリンたちはダークエルフの威圧感を前に散り散りになっていく。
ただ一人、グロウ=ザンだけが動かなかった。
「そうだ。しっかり魔王様から勲章も頂いている」
「緑肌に与える勲章など、皮肉よ。それにも気づかぬ愚か者め」
グロウ=ザンは押し黙った。
ダークエルフの女剣士はずかずかと歩み寄って、グロウ=ザンを下から睨んだ。
「緑肌、頭が高いぞ」
「俺はオークだからな」
「態度もでかい」
ダークエルフが鼻を鳴らす。
「私が黒の軍団第五の剣、メルフェルト・ドーン=スタインと知っての狼藉か?」
「階級はよくわからん。オークなんでね」
「……これだから口だけ回る緑肌は」
「わざわざ口だけ回る緑肌の墓に何の用ですかな」
メルフェルトが思い出したようにはっとし、グロウ=ザンを睨んだ。
威圧的に彼女は構えるが、偉丈夫のグロウ=ザンの前では大きな胸を強調したようなポーズにしか見えない。
「老いぼれの墓に興味はない。貴様に用があって来た」
「それはそれは光栄です」
グロウ=ザンが芝居がかって礼をすると、メルフェルトは更に不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そのお辞儀はどこで習った? 人間か? まあ良い……丁度人間の話をしたいところだった」
「人間の?」
「貴様、エルフへの監視任務を覚えているか」
「ええ」
即答だった。
メルフェルトは眉をひそめる。
十年も前のことをしっかり覚えているというのは、流石に彼女も予想がつかなかったのだろう。
だがグロウ=ザンにとって十年前のあのエルフの森での出来事は、昨日の事どころか今日の事のように鮮明に思い出すことができる。
今のグロウ=ザンがいるのも、あの出来事があったからこそであるがゆえに。
「貴様の言っていた例の人間が見つかったという報せが届いた」
グロウ=ザンの目が血走り、思わずメルフェルトの肩を掴もうとした。
だが彼女が一歩下がり、剣の柄に手を添える。
その殺意に当てられ、グロウ=ザンも落ち着きを取り戻す。
「非礼は許す。例の人間、シャイタンと言うそうだ。知っているか?」
「名前は知りませんな」
「ふぅむ」
メルフェルトが柄に手を添えたまま、グロウ=ザンを見据えた。
「知らんのなら良い。では失礼する」
「……お待ちください。メルフェルト殿、何故それをわざわざ俺に」
「貴様が知らぬままあの人間が死んだとなれば、屈辱であろうからな」
メルフェルトがにやりと笑う。
「第二の勇者が出ただの、嵐のような人間が出ただの、散々喚いたそうではないか」
「……事実ですからな」
「笑い者にされたのであろう? その口達者ぶりを見るに、屈辱すら感じぬ野蛮な輩ではあるまい」
「……」
「黒の軍団第五の剣、このメルフェルト・ドーン=スタインが貴様の屈辱のもとを断ち切ってくれよう。明日の人狩りで片付く。指を咥えて待っておれ……くくく」
メルフェルトは悪戯っぽい笑みを浮かべ、グロウ=ザンに背を向けた。
「行くぞ!」
彼女は待機していた剣士たちに声を掛け、引き上げていく。
その背をグロウ=ザンは眺めていた。
──あのデカブツ人間が、見つかった?
ふつふつと何かが湧き上がってくる。
怒りか? 憎しみか?
今のグロウ=ザンには分からぬ。
だが、動かずにはいられない。
この鋼のような肉体は、あのデカブツ人間を倒すために鍛え上げたのだから。
それが黒の軍団のメルフェルト・ドーン=スタインがヤツを斬る?
冗談ではない。
「メルフェルト!」
グロウ=ザンは声を張り上げていた。
「下郎! 殿がついていないぞ殿が!」
「その明日の人狩り、俺も同行させてもらおう!」
静寂。
だがそれは、メルフェルトの笑い声によって斬られた。
「貴様がか? くくく! 良い笑いの種をくれるな!」
そしてメルフェルトと彼女の配下たちはひとしきり笑った後、ぴしゃりと言い放った。
「叛逆などと嘯いていたゴブリンの仲間を同行させるわけなどなかろうよ! 貴様は命があることを噛みしめているがよし!」
そう言ってメルフェルトたちは去っていく。
グロウ=ザンはその背を眺めたまま、己の腹の底から湧き上がってくる何かを感じ取っていた。
「であればメルフェルト殿、この俺グロウ=ザンと立ち合って頂こう!」
魔人拳 たみねた @T_G
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