序 人間のような魔物
下級魔族のオークであるグロウ=ザンにとって、人間とは恐るべき魔物であった。
ほとんどの人間という生物はか弱い。
脆弱で軟弱で、鍛えなければロクに戦えない種族である。
その鍛錬というものも、グロウ=ザンにとっては児戯でしかない。
取るに足らない相手だった。
──あの男と出会うまでは。
第三次魔王侵攻の二か月と二日程前である。
人間が滅びの時を迎える少し前の話だ。
その日のことを、鮮明に思い出すことができる。
身体が覚えているのだ。
頭で思い描かずとも、身体が疼き理解するのである。
その日、己は敗北したのだと。
夜の森だった。
木々が生い茂っているが、自然が荒れ狂うことなく調和していた。
エルフの領域の近くである。
人族と魔族の戦争に対して静観を決め込むエルフどもの領域を避けて作ったキャンプに、グロウ=ザンらはいた。
偵察、そして監視である。
エルフたちは人間を匿っている可能性が高かった。
中立の立場を取っていようとも、エルフは無視できぬ。
彼らの力は侮れない。
グロウ=ザンと共にいたゴブリンどもは、エルフどもをただの孕み袋としか思っていなかったが、グロウ=ザンは違った。
グロウ=ザンはオークでありながら知略に優れている。
他のオークのようにだらしない筋肉ではなく、引き締まった筋肉に身を包んでいた。
筋肉の山である。
その山に、聡明な頭脳を宿しているのである。
グロウ=ザンはすぐに魔王軍の中流階級に就いた。
上級魔族たちと肩を並べることは許されなかったが、それでも大出世である。
それでこうして、頭の悪い下級魔族どもを率いて、偵察に当たっていた。
夜のゴブリンたちは飢えていた。
ゴブリンたちは勝手に人間の女を数名捕まえたが、もう使い切ってしまったのだ。
欲望のままに行動する下級魔族のなんと愚かしいことか。
だが、部下を統率するのはグロウ=ザンの役目である。
人間の女でも一匹、捕まえてこようかと思った。
あるいはエルフの女を。
ゴブリンたちは喜ぶだろう。
偉そうなやつを乱暴にするのは、頭の悪い種族であっても気持ちが良いものらしい。
それはグロウ=ザンも同様だ。
傲慢なエルフたちの魅力的な身体を蹂躙したいという思いが、彼にはある。
筋肉の実っていない細い肢体を引き裂いてやりたい。
美しい顔が歪むところを見たい。
力の差を見せつけてやりたい。
ただ快楽を貪ることしか考えぬゴブリンどもを無意識に見下しながら、彼は思いを巡らせた。
そうして、グロウ=ザンが重い腰をやっと上げた時だった。
血の臭いが、森から漂い始めたのである。
「GRRR!」
「GRA!」
ゴブリンたちもそれに気付いたようだった。
グロウ=ザンの鼻孔をくすぐる臭いが告げている。
女だ。
それも、エルフの女の臭いがする。
二名──いや、三名か。
その血の臭いがする。
エルフどもが獣にでもやられたか、と思った。
だが、それは次第に近づいてくる地響きにも似た足音に掻き消された。
「GRAAAH!」
「GRAH!」
ゴブリンたちが騒がしい。
グロウ=ザンは彼らを鎮めようとした。
だが、彼の聡明な頭脳の中に眠っていた本能が、警鐘を鳴らした。
──恐るべき獣が近づいている。
しかし獣の臭いは一切しない。
何者か。
一体何が近づいてくるというのか。
グロウ=ザンは右往左往するゴブリンたちをよそに、待った。
ゴブリンたちも濃い女の香りと血の臭いを嗅ぎ、結局その場で待つことを選んだ時だった。
森から、肌色の巨人が現れた。
グロウ=ザンよりも遥かに大きかった。
巨人の筋肉はグロウ=ザンよりも遥かに膨らみ、柔らかくも硬そうだった。
神秘的な肌色の甲冑を纏ったような巨人である。
そして──
人間の香りがした。
そいつはエルフの生首を持っていた。
無造作に千切り取ったであろう三つの生首の髪を丁寧にまとめて、持っていた。
狩りを終えた巨人系の魔族、と言った方が正しいだろう。
だが、目の前のそいつは間違いなく人間だった。
あり得ない光景を前に、グロウ=ザンはすぐにでも動けるよう身構えた。
「何者だ」
グロウ=ザンは言った。
しっかりとした共通語である。
人間も魔族も使う言語。
それに人間は目を僅かに見開いて、にぃと笑った。
「話せる緑のオークを見たのは初めてだぜ。てめえ、良いな。それなりに強いかな?」
「何者だと聞いている」
人間はエルフの首を土の上に転がした。
その首は皆、おぞましいほどに恐怖に染まっている。
「エルフを三人くらい味見した人間さ」
「見れば分かる。人間はエルフの味方だった気がするのだがな」
「世間はな? 俺は違う」
ほう、とグロウ=ザンが息を吐いた時だった。
肌色の風が吹き荒れた。
否。
デカブツ人間が突進したのである。
肌色の風が吹き荒れた後には、肉の欠片が散らばった。
ゴブリンのミンチである。
一瞬だった。
グロウ=ザンの頭脳を以ても、何が起きたのか理解できなかった。
「──勇者?」
ぽっと、グロウ=ザンの口から漏れたのは人間の英雄を差す言葉だった。
下級魔族のゴブリンとはいえ、一秒も経たずに制圧するなど只者ではない。
それも、グロウ=ザンの反応を待たずして、だ。
グロウ=ザンとて圧倒的な強者ではないが、強い方である。
人間の英雄の成せる技としか考えられなかった。
「ばぁか。オレみてえなのが勇者に見えるか? ン?」
「……見えぬな。何者だ」
「何者でもねえよ」
グロウ=ザンには信じられなかった。
何者でもない人間が自分より背丈が高く。
何者でもない人間が自分より筋骨隆々であり。
何者でもない人間が自分より圧倒的に強いと思わせてくる。
何か、理由を探したい。
脳裏を伝う汗を拭えるような理由を聞きたい。
それがグロウ=ザンの聡明な頭脳の欠点であった。
隙を与えた。
与えてしまった。
先程も十分隙にはなってはいたが──今度のは、致命的だった。
「ふっ」
鋭い呼気が聞こえた。
人間が突進してきた。
そう脳で考えた時には、もうグロウ=ザンの体は地面から離れていた。
──疾い。
衝撃。
体当たりで大樹に叩きつけられたのだ。
そう思った時には、眼前にあの人間がいた。
咄嗟に殴ろうとするが、動かない。
瞬間、激痛が迸る。
グロウ=ザンは大きく呻いた。
あまりにも速すぎて、痛みを感じるのが遅れたのだ。
グロウ=ザンは人間を睨んだ。
睨めば、彼は退屈そうに首を鳴らしている。
ごきり。
ごきり。
と、死んだゴブリンどもも命乞いしそうな圧を含んだ音だった。
「頑丈だけどまあ、弱かったな」
「ま、だ……終わって、おらん……!」
ぶおん、と空気の貫く音がした。
アッパー気味の拳が空気を焼き焦がしながら、グロウ=ザンの腹部に命中した。
グロウ=ザンは胃液を吐いた。
自分より大きいものの拳の威力は想像できよう。
だがそれが人間であるとなると、グロウ=ザンの判断も鈍った。
恐ろしい人間である。
グロウ=ザンは初めて、この期に及んでゴブリンたちのように女を抱きたいと思った。
原始的な本能である。
それはつまり、本能は死を間近にしていることを意味していた。
それを理性で振り払う。
振り払った途端、人間の拳が腹部を貫いた。
身体の中を蹂躙される。
激痛。
激痛。
意識が体から抜け落ちそうだったが、耐えた。
グロウ=ザンは崩れ落ちた。
「呆気ねえなあ」
デカブツ人間の声が聞こえる。
グロウ=ザンは地面と接吻した顔を辛うじて持ち上げた。
彼は──ゴブリンの肉を食っていた。
激痛の走る身体が、動かしてはいけない身体が、びくりと震えた。
確かに魔族も人間を食う。
人間を犯し、人間を蹂躙する。
──人間はこんな光景を見ていたのか。
寒気がした。
それが死が間近だからか、おぞましい光景を目にしたからなのかは、分からなかった。
ただただ恐ろしい。
だが、人間は立ち向かってきた。
このような恐ろしい光景を目にしても、立ち向かってくる人間を見たことがある。
であれば、グロウ=ザンも立ち向かわなければならない。
人間未満の魔族などに、なりたくはない。
グロウ=ザンは自分の血の池を這った。
「ああ? まだ動くのかよ、てめえ」
デカブツ人間が言った。
それでもグロウ=ザンは這った。
必死に体を動かし、彼のもとに辿り着こうとした。
「てめえの肉は固そうだからいらねえよ。ゴブリンどもの肉は貰ってくぜ」
だが彼は、グロウ=ザンにトドメを刺すこともなく立ち去った。
ゴブリンの肉をいくつか持って。
後にはミンチになったゴブリンの骸と、グロウ=ザンだけが残った。
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