【弐話】不殺の契り

【一】川辺の神隠し

◇◇◇


 しん……と、闇が落ちる。

 その晩、神隠しが起こった。


 十五歳の少女が忽然と姿を消したのだ。姿形を僅かにも残さず、まるでそんな少女は居なかったと言わんばかりである。彼女が存在していた証拠は、生活の痕跡と人の記憶を除いて、無に帰していた。


 少女はその日、父の仕事の手伝いをしていた。彼は病で妻を亡くした傘職人であり、少女は彼の一人娘である。


千代ちよ、悪いが川で水を汲んできてくれ」


 彼は娘——千代にそう依頼した。飲み水ではなく、仕事に使うものである。


「はい」


 千代は頷き、玄関に無造作に置かれた手桶をふたつ持って外に出た。太陽は既にほとんど隠れており、残るは頭頂部の微光のみである。


「急ごう」


 彼女は空を見て呟き、両手に桶を引っ提げて走った。帰りは足が鈍重になるため、それを加味して往路での時短を試みたのだ。目的の川までは、千代の家から歩いて十分、小走りなら八分である。菓子屋や八百屋などはもう店を閉めはじめ、飲み屋などは逆に今から暖簾のれんをかけている。千代は、それを横目に見ながら駆けた。


 川についた頃、すでに日は沈んで暗くなっていた。提灯でも持って来るべきだったと、彼女は後悔する。ここへ来るのは初めてではないため、暗くても、千代は景色を概ね理解していた。その事が却って、彼女に若干の恐怖を与える。切り開かれたその場所のすぐ近くには、深い林があった。日中でも薄暗い林は、今の千代には大口を開けた物の怪のように見えたのである。川のふちにしゃがみ込み、桶に水を汲んだ。満杯にはせず、八分目程に留めておく。十分も汲むと、帰りに着物がずぶ濡れになってしまうことが、火を見るよりも明らかだったからだ。


「これで良し」


 職務を全うし、彼女はやおら立ち上がる。両腕に重みを感じた千代は、その手桶の持ち手を考案した人物に強烈な平手打ちをしたくなった。


「もう少し持ちやすくしてよ」


 木製の持ち手が、白くて細い彼女の手指を破壊するのではないかというほど、大きな荷重をかけるからだ。


「うん?」


 ふと、千代は足を止めた。林の奥、川の向こう岸から、何かゆらゆら揺れるものが迫っているのを見つけたのだ。暗い中においても、はっきりとその姿を捉えることができる存在——火である。千代の目には、その火だけが浮かんでいるように見えた。


「なに……? まさか、ひ、人魂ひとだま?」


 千代の顔は色を失った。健康的で血色の良かった顔は、ほんの一瞬にしてその逆となったのである。虚構の存在。大人が子供を躾けるために生んだ嘘。恐怖を楽しむための読本よみほんに出る架空。人魂についてそう考えていた彼女は、そんな馬鹿なと己の目を疑った。人魂など存在するはずがないと理解していたが、現に、目の前にそれとしか思えないものが在るからだ。


「なに、なに、なんなの?」


 決して寒くはないが、千代は歯をがちがち鳴らした。無意識に手桶を離し、彼女が立つ地面は水を吸ってぬかるむ。今すぐ手桶を捨てて逃げ去りたい。それは間違いなく彼女の願望であったが、身体がそれを許さない。あまりの恐怖に泣く千代を嘲るかの如く、膝が笑ってあるじの言う事を聞かなかったのだ。喉も同様、千代に対して謀反を起こし、叫び声を上げさせまいとする。


「や、やだ……来ないで……」


 やがて腰までもが千代を裏切り、泥に尻を落させる。彼女はどうしてか目線を外せず、常に人魂を観察した。


「人、なの…………?」


 彼女にそう思わせたのは、荒れた呼吸音と、じゃばじゃばという水を掻き分ける重い音であった。人魂と思しい火と共に、それが彼女の方へ近づいていたのだ。だが千代の安心は直後、泡沫のように消える。


「うへ、ぐへへ。今日の、ご馳走……!」


 この世のものとは思えない奇怪千万な声が、千代の肝を冷やし、震え上がらせた。人魂と千代の距離が詰まる。火はやがて、光源として千代に声の主を見せた。


「ぐへ、ぐへへへ」

「か、河童……?」


 それはどの道、虚構の存在であった。千代の鼓動は速まる。彼女が見たのは、背が低く、瘦せ細った者。肌は不気味に青白い。白髪混じりの頭髪は整っておらず、しかも頭頂が禿げている。歯は半分ほど抜け落ちていて、着物はだらしなくはだけていた。姿がそれなら中身も醜穢しゅうわいで、千代を見て不気味に舌なめずりを繰り返している。彼女が表現した通り、河童に近かった。


 ——その夜以降、千代の姿を見た者は居ない。


 ふたつの手桶だけが川の淵に残されていたため、人々はこれを水辺の失踪事件として恐れた。


 ——それ即ち、河童の仕業である、と。


 口碑こうひによっては、河童は水神、またはその遣いであるとする考えもある。したがって、千代を何処かへやってしまったこの出来事は、一種のとして語られたのである。

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