【五】芽を出した毒花
◇◇桜華◇◇
その日、私を覚醒させたのは、百千鳥の歌声だった。朝だ起きろと告げる、可憐な声だ。同じ押し入れで眠る小町の耳朶にも届いているはずだが、彼女はすうすうと呑気に寝息を立てている。私は「もう朝だよ」との報せに疑問を抱き、よおく耳を澄ましてみた。雄鶏、
「臭っ……!」
目覚めて研ぎ澄まされてきた私の嗅覚を、寂れた布団の臭いが刺激した。息苦しさも同時に感じた私は、本能的に新鮮な空気を求めて襖を開ける。
——いいか、騒ぎが収まるまで、絶対に出てくるんじゃないぞ
ふと、昨晩お父さんに言われた言葉を思い出した。窓から差し込む日光は、何の抵抗もなく敷居を越えて私に届く。
「騒ぎはもう、収まった……?」
呟いた私は、やおら押し入れから這い出て、もう一度よおく耳を澄ます。喧噪も、怒号も、丁丁発止も……そして金切り声も聞こえない。やっぱり、鳥の歌と小町の寝息だけだった。
「小町。起きて、小町」
怖いような寂しいような、とにかく不安な気持ちになって、私は同居人の肩を揺すった。それに便乗して、塵が歌舞伎踊りを再開する。
「んん……あ、桜華。お父さん来たの?」
目を覚ました彼女は、埃に
「ううん。でも、騒ぎは収まったみたい」
「何だったんだろうね」
「……さあ」
脳裏には、お父さんの背中が思い返されていた。よくよく考えてみれば、あの紅は血だったかもしれない。小町が紅に気づいていたかは判らないけど、少なくとも私の心臓は、寝起きとは思えないくらい活発だった。
境内を歩きながら蒼穹を見やると、雲一つない晴天だった。昨日見た嫌な黒は、その欠片も残さず消え去っている。日輪の位置からして、もうお昼前くらいだと思う。このまま拝殿の方に歩いて行けば、また吉平に「寝坊助桜華」って
「みん、な?」
外で寝てたら風邪ひくよ。不安を相殺するように唱え、砂利の上にうつ伏せになった一人のもとへ。
「吉、平……?」
起こしてみると、彼の頸には、見るも無惨な深い裂傷が見られた。力なく、すぐ地面に向かおうとする彼の後頭部を支え、私は何度も呼びかけた。
「ねえ、起きてよ。吉平? もうお昼前だよ?」
彼の体を何度も揺するが、返事はない。うんともすんとも言わない。尚も、私は繰り返した。
「吉平! いい加減に起きなよ! 寝坊助、この寝坊助!」
冗談だと言って欲しかった。突然ぱちりと目を開けて、孤児妹に対する悪戯だよと言って欲しかった。でも残念。この地獄は、夢でも虚妄でもなかった。
「お父、さん……?」
祭壇の前では、お父さんが眠っていた。彼が寝坊するなんて珍しい。まあ、昨日は遅くまで起きてたみたいだし、仕方ないか。
「なんで、なんで……誰が、こんな…………!」
倒れたお父さんの前で膝立ちになる。目の前の様子は、水中に居るみたいだった。
「桜華……」
独り言を言ったつもりだったけど、いつの間にか私の背後に居た小町に聞かれたようだ。
「まだ起きてる悪い子は、あたしらだけ……みたい」
見なくても、声の感じで判る。小町も今、私と同じく水の中から物を見ていることだろう。
「あれ、剣が無い」
小鹿の如く震えた声で小町が言った。祭壇を見やると、確かに御神体の天叢雲剣が無くなっていた。見渡しても、何処にも落ちていない。近くにあるちょうどいい刃物は、お父さんの刀だけ。「ごめんなさい」と謝りながら、私はその刀を手に取った。蛇の装飾が、私を睨んでいる。刃を見ると、新品同様に綺麗であることが分かった。血の一滴さえ付いていない。宝物を奪った何者かに、全然抵抗できなかったんだろうと思う。それか、事に依ったら、お兄ちゃんたちを守るために……。
——まあ、何でもいいや
私はありとあらゆる思考を
その九割以上が一挙に失われたことで、残ったのは血肉や骨なんかの一割未満だけ。死体と一緒。骨も血肉も、今のお父さんや吉平たちにだって有るもん。そんなの、生きてる意味ある? 魂の殆どが抜け落ちた今、
心の穴に刀身を挿してやれば、すてきに埋まるんじゃないかなっていう企図。怖くない、全く。私は
「桜華……」
「なに、小町。離してよ」
「……桜華」
「邪魔しな——」
「——桜華!」
一度目は呼びかけ、二度目は静止、三度目は叱責ととれる。
「刀を置いて。馬鹿な真似は、やめてよ」
私は従わなかった。すると更に、小町は密着してきた。もはや熱いとさえ感じる。
「なんで、小町は生きようと思えるの? お父さんも、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、全員死んじゃったんだよ⁈」
背中に小町を感じたまま、大声で言った。私が感じている喪失感や虚無感といったものは、小町も同じく感じているはずなのに。それなのに、どうして解放されようという私の邪魔ができるんだろう。私には、小町の心が解らなかった。
「全員死んでなんか、ないよ」
少し置いて、小町は小声で言った。私はこれも理解できなかった。禅問答であるとすら感じられた。現に、お父さんの亡骸が目の前にある。参道に出れば、吉平や宣長や、みんなの亡骸がある。絶望のあまり、彼女は夢の世界に引き篭もってしまったのかなと、そう思った。——でも、如何やら違ったらしい。
「一人、生きてる」
「え?」
「……まだ、解んないの?」
私の身体に巻いた腕に、さらなる力が込められた。僅かに苦しい程だったけど、心のそれに比べたら無に等しかった。
「小町? いったい、何を言って——」
「ああもう! あんたにはまだ、あたしが居るって言ってんの!」
はっとした。終ぞ感じたことのない強風を感じた。そのまま私を攫ってしまうんじゃないかと、そう思うほどの暴風だった。だけどそれでいて、私の心を愛撫するような、優しい風でもあった。腕の力が勝手に抜けていく。刀身と床とが邂逅する音が響く。
「小、町……小町!」
一安心したためか、小町による拘束が解けた。背中がすっと涼しくなる。私にはそれが心の冷えに感じられ、振り返って逆に私から拘束した。小町の両腕は、今度は背中と腰に巻きついてきた。
「だから、割腹なんかしないで。あたしから、最後の家族を奪わないでよ」
優しく……極めて優しく、小町は言った。
「ごめん……ごめん、ごめん!」
抱きついたまま、私は繰り返し謝った。
——其れは、憎悪
私から、私たちから、大切な宝を奪った存在に対する、激しい憎しみだった。「死んでしまおう」という想いの代替として、沸沸と湧いているのだ。
「復讐、してやる……」
そんな行為に意味が無い事は分かっていた。犯人を見つけ出し、何をしたところで、家族が黄泉帰ることは決して有り得ないと理解していた。
「絶対、絶対に、赦さない」
「桜華……うん、やろう。一緒に、やろう」
それでも、私はやると決めた。
支え合いながら立ち上がった。お父さんの刀を手に取る。今度は狂気じゃない。しっかりと鞘に納め、左腰に携えた。
私たちは部屋に戻り、必要なものだけ風呂敷に包んだ。家族の亡骸を横目に見ながら、参道を下る。生じた二つの想いは、綯い交ぜにされたまま。蒼穹は、気持ち悪いほどに、一面真っ青だった。
【壱話 毒花の芽吹き 〜完〜】
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