第29話 リオの記憶2

 見張り小屋の戸の前で、母は言った。

 それはわたしの予想を超えるものだった。


「リオ。このドアの先には、リイチ様がおられます」

「え!?」


 思わず大きな声を出してしまったが、すぐに自分の口を手で押さえた。

 いかなるときも冷静にしなければならないから――でも、その一文の思いを抑えることは難しかった。

 

「リイチ様って、鬼炎家の、ですか?」

「それ以外に、リイチ”様”は居られません」

「すごい……」


 わたしはただただそう思った。

 なにせ当時のわたしは「鬼炎家」に命を捧げるためだけに生きていたのだ。

 

 そしてわたしが仕える相手も決まっていた。


 ――鬼炎家のご子息がさずかったご長男。

 ――リイチ様。


 当時のわたしは、それが曰く付きの出産だったことなど知るよしもなく、ただただその名だけを、夢に見るほどに教え込まれていた。


『あなたはリイチ様のために死ぬのです』


 今でこそ時代錯誤だとも思えるが、当時はスマートフォンなんかもない時代だと思うと、なるほど、そういう感性が残っているのもうなずけた。

 とにかくわたしは「鬼炎家のリイチ様のために自分を磨くのだ」と、そう信じていたわけだ。


 下世話な言い方をすれば、命をあげてもいいくらいのアイドルが、ドアの向こうにいる感じである。

 いや、さすがに下世話すぎるか。

 でもわたしの気持ちは高ぶってしかたがなかった。


 本来であれば、主を前にするときほど落ち着くものであるが、わたしの教育はまだ半ばだった。


「リオ。よく聞くのです――本来であれば、16の年まであなた方は会わぬ予定でした」

「はい、お母様」

「ですが、予定が変わったのです」

「かわった……?」

「幸せな日に、幸せなことばかりが起こるわけではないということです」

「え? でも、リイチ様にお会いできるならば幸せです……」


 母は、そんなわたしをみて、何かを考えていた。

 だが、結局、首をふった。

 それが誰に向けての否定だったかはわからなかった。


「リオ、よく聞いて。リイチ様はこちらの小屋でお時間を持て余しておられます。鍛錬をする時間でもないので、リオが一緒に、遊んでさしあげるのです」

「遊んで……?」


 感覚でいえば、自分の上司になる人間と、遊べと言われるようなものだ。

 わたしは困惑した。

 だが母はそれを一刀両断した。


「リイチ様は、お友達をご所望しているのです。ですから、あなたとリイチ様は、今日だけは対等に遊びなさい」

「……たいとう」

「わかりましたね? リオならできるはずです」

「は、はい」


 わたしはそうして、母に背を押されて、ドアを開けた。

 室内の空気が、外気と混ざり合う。

 風のゆびさきが頬を撫でた。


「だれ?」と男の声。

「――っ」


 目の前に現れたのは、一人の男の子だった。

 わたしより一つだけ年上のはずなのに、どこか大きく見えたのは、それまでに培ってきた勝手なイメージからだろうか。

 決して広くない室内が、まるで草原のように広々と感じたのは、わたしが勝手にすべてを決めつけていたからだろうか。


「あの……」とわたしは言った。言葉がなかなか続かない。

「うん?」


 男の子は、なにもしていなかった。

 窓ぎわに立って、外をみているだけのようだった。

 振り返ると、母はいなかった。


 わたしは固まっていた。

 だって、目の前にアイドルがいるのだ。

 そして、それは命を懸けよと教えられてきた相手だ。


 姿は知らなかったけれど、名を聞いただけでわたしの体は痺れる。

 その姿をみれば、わたしの体は硬直する。


『あの、あの』と繰り返していたわたしをみて、男の子は――リイチ様は何を思ってくれたのだろうか。


「ねえ、あっちに鳥が飛んでたんだよ。ぐるぐるまわって、変な鳴き方してた」

「……トンビでしょうか」

「トビ?」

「いえ、トンビです、リイチ様」

「へえ。トンビか――あれ、なんでぼくの名前知ってるの?」

「わたしは、あなたの為に生きておりますので……」

「……へえ? あと、なんでそんな変な喋り方なの?」

「へ、へんでしょうか……」

「なんかクリーニング屋のお爺ちゃんみたいだね」

「おじいちゃん……」


 せめておばあちゃんじゃないのだろうか……。なんだかわたしは急に泣きたくなった。

 母の言葉を思い出した――対等に。友達に。

 

「ねえ。君、ここのおうちの子?」

「はい……いえ、うん」

「なら一緒にこっちきて、外見ようよ」

「え? あ、うん」

「楽しいよね、外見るの」

「そ、そうかな……」


 リイチ様は子供ながらにどこかおかしくて、どこか落ち着いていた。

 わたしはそんな雰囲気に呑まれて――いいように遊ばれてしまったようだった。


 初めて出会った、わたしのご主人様。

 命をかけてお守りする相手。

 そして――その後あきらかにされるはずだったのは、わたしが彼の妻となるはずだったという事実。


 けれどそんなことは全て、水の泡となった。


 なぜって?


 わたしの誕生日から遡ること数週間前――リイチ様のお父様が事故でお亡くなりになった。


 それは不動の鬼炎家をしても、上を下にの大騒ぎとなっていたのだ。


   ◇


 結論から言おう。

 リイチ様のお父様とお母様は駆け落ちをした。

 しかしその逃走劇はすぐに終わった――と見えた。


 だが、それだけに終わらなかったのは結果が物語っている。

 お母様のお腹の中にリイチ様が宿っていたからだ。


 鬼炎家きっての問題児だったお父様は、その日から変わったという。

 ただの一般市民――いやもしかするとそれ以下の愛する人と子供を鬼炎家の末席に加えるために、怒涛の進撃をみせた。


 鬼炎家の中でも問題児だったリイチ様の父親は、鬼炎家の中でも規格外の才能の持ち主だった。でなければ、自由など許されているわけがない。

 そしてそんな人間の遺伝子を引き継いでいる子供を鬼炎家だって、見過ごすわけがない。


 お父様は家族のために、鬼炎家は繁栄のために――このままいけば、全ての時間は、ただの遠回りとして処理されるはずだった。


 だが、お父様が事故にあわれた。

 誰が飛行機墜落などを予測できようか。

 一部では、世界のパワーバランスに一石を投じる可能性のある人間を暗殺したのだ――などと噂になったりもしたらしい。


 だが、全ては闇の中――いや、違う。


 闇の中でも、まだ光はあった。

 リイチ様の存在だ。


 しかしわたしにとっての闇もあった。


 その日をもって、わたしとリイチ様の表向きの関係性は終わった。

 お母様が悲しそうに言った。


「最後にお会いできたことだけを、喜ぶのですよ」


 その日から、わたしの人生の意味が変わった。

 リイチ様は――ただの他人となったのだ。

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