第23話 水無家の男湯
水無家の別荘内は、外見に違わぬ雰囲気とおごそかな造りだった。
雑誌でしか見たことがないような高級旅館の印象そのものである。使われている資材すべてが高級で、すべてに重量感みたいなものがある。
広い玄関の片隅に靴を脱ぎ、赤く毛の長い絨毯。そのうえに並べられたスリッパをはく。
先に準備を終えた使用人が、まるで仲居さんのように俺の世話をしてくれていた。
若干、迷路のようにも感じられる細い通路を進んだ先に、離れのような造りの部屋があった。どうやらここが俺にあてがわれる部屋らしい。
母屋から独立しているような造りのせいか、部屋数自体は多くない。しかし面積は広く、一部屋で昔住んでいたアパート並みの平米数はありそうだ。
使われている素材が良いからなのかどうかは知らないが、心地よく包み込んでくれるような安心感がある。
障子を開けると丁寧に整えられた日本風の庭園と、石で囲われた池をゆうがに泳ぐ錦鯉が見えた。
先に入室していたリオは、荷物に手を付け始めながら言った。
「リイチ様。お荷物を開くのも、お食事のご用意もまだ時間がかかります――先にお風呂に入ってきてはいかがですか? 全国に存在する水無家の別宅にはすべて温泉をひいております。とくにこの地の泉質は、あらゆる万病に効くとされています」
「へえ。そりゃすごいな」
苦しそうな表情でリオは視線を下げた。
「童貞は治らないんですけどね……」
「望んでねえよ」
治すものでもないだろうが。
「混浴でないので、リオもお留守番ですし……」
「混浴だとしてもお留守番だ」
「一人でお体、洗えますか?」
「二人のほうが洗えないだろ……」
「リイチ様は恥ずかしがり屋さんですね? 前を隠すために両手を使いますものね?」
「常識人と言ってくれ」
ニヤァ、と笑うリオは両親の前のイメージとはずいぶんと違う。
「なにをおっしゃいますか。リイチさま、いつも裸を見せつけてくるじゃないですかー。やだなーもう、いまさらですよ」
「お前が勝手に風呂のドアをあけるんだろうが!」
この前なんて全部見られたぞ!
『きゃーっ』とか言って顔を隠したリオの指の間から、しっかり小型カメラが見えていたので、速攻で回収しておいた。
「良いメイドは先に先にと行動するものです。それにお背中もお流ししなければなりませんし」
「いいよ。絶対に、いらない」
「ようするにリオにも裸の付き合いをしろと、そういうことを仰っているはずだとリオは常々、推測しております」
「推理力を取り返してこい」
「推理力取り返していいんですか? リオの体はすでに大人、ついでに頭脳はもっと大人になってしまった場合、リイチ様に勝ち目ないんじゃないです? 追跡から逃げ切れます?」
「……確かに、どこぞのお国のお仕事スパイレベルの情報収集能力になりそうだ」
そうなったら一日で人生変わってしまう自信がある。
ていうか追跡前提のメイドってなんだ。
「ですよねー? 週一でリオの下着を盗む楽しみも無くなっちゃいますから、やめましょうね」
「お前はまず捏造をやめろ」
「専属メイドにイヤらしい下着を身に着けてもらいたいという、童貞高校生の気持ちは分からないでもないのですが……、リオはまだ清純なメイドでいたいので、いくら盗んでも下着は進化しませんよ?」
「わかった。ここから出ていけ」
「ここ、水無家の別荘です」
「そうだった……」
それにしても温泉か。
泉質だの何だのは分からないのだが、温泉という二文字にはやはり惹かれてしまう。
だが、水無家の当代にまともな挨拶もしていないのに、温泉を堪能するというのも不味い気がするのだが……。
リオの表情がプロメイドモードに戻った。
いい加減どちらかに偏ればいいと思うのだが……、いつか一つの人格になるときがくるのだろうか。
いや、どの人格が正解かなんて知らないんだけど。
「リイチ様。お忘れですか? 水無家を含めた数々の家系は、そのすべてが鬼炎家に従うことを定められた者たちです。つまるところ、水無家当代であろうとも、鬼炎家の血筋であるリイチ様の行動を制限できるものではありません」
「いや、そうは言ってもだな……」
血筋とか家系とか……そういうことじゃないと思う。
「人と人との付き合いの話だろ、これは。鬼炎家とか関係あるか?」
「甘いですねえ、リイチ様。世の中、血筋だけで人生イージーモード。人の心を簡単に壊すことだってできるんですよ?」
「俺はそんな立場にないだろ」
リオの表情がぴくり、と動いた気がした。
「……そうですか。人と人との付き合いでよろしいのですね? ようするにリイチ様に人を変える力はなく、リオと同等であると――では私も、メイドの立場ではなく、一人の人間として今ここで行動を致しましょう」
リオが突然、スカートをたくし上げて、両脇から手を突っ込んだ。
どうみても自分の下着に手をかけている。
おろしたら、おりる。誰でもわかる。
リオの表情が緩んだ。
「リオは判断します。まず鬼炎家の人間として童貞は捨てるべきでしょう。でなければハニートラップにひっかかりまくりですから。よってリオも一人の人間として覚悟を決めます。さあ、どうぞ、リオのこと、今ここで抱いてください」
「……、……は?」
「『は?』ではありません。ただしリオは撮影されると興奮される性癖があるのです。さらに衆人環視の目に映ると、なお興奮します。よって、メイドとしてならばお願いできませんが、水無リオ個人としてぜひお願いさせていただきます。二人の営みをスマホで撮影し、世間の皆様に見てもらい――」
「――お風呂いってきます!」
「ですよね、いってらっしゃいませー――もう、リイチさまも素直じゃないですねえ」
死刑宣告を聞く前に、俺は部屋を飛び出した。
やっぱり俺には人を動かせるほどの力なんてない。
リオのほうがよっぽど上手だろう。
◇
通りかかった使用人にお風呂の場所を尋ねる。
なにせ旅館なみに広いし、離れや中庭なども存在しているので、同じところを何回か行き来するはめになった。
ようやくたどり着いたお風呂場には入り口が二つ。
男、女。
混浴でないことを確認して、男に入る。
リオの罠を疑いつづける自分が居るのは仕方のないこと――なのかどうかは不明であるが警戒心は消えない。
脱衣所で服を脱いでいると、男性の使用人が着替えとタオルを持ってきてくれた。
リオに命じられたのかもしれない。
礼を言いながら受け取る。
室内の籠を見ると、すでに誰かが一人、入っているようだった。
裸になり、タオルを持って、湿気の強くなる先へ。
ガラリと音をさせて風呂場に入れば、先客である水無家当代――巌さんが肩までお湯につかっていた。
俺に気が付いて、中腰になる。
「やあ、リイチくん――いや、鬼炎リイチ様、とお呼びせねばいかんな。さあ、どうぞどうぞこちらに」
リイチ様、か。
どうにもやりづらい。
ここまで威厳のある人に下手に出られても困る。
「あの、俺、まだ学生ですし……、呼び捨てでも構わないぐらいですので」
「それは笑えない冗談ですなあ。ああ、笑えないジョークは私の十八番でしたかね」
あっはっは、と豪快に笑う巌さんを横目に、俺はかけ湯をしてから、透明な湯に足先から入り、身を沈めた。
言いようのない癒しの成分が、体に染み込んでいくのを感じる。
あ゛~、と言いたくなるのを我慢。
「いかがですか、いいお湯でしょう? 今回、夏の療養にここを選ばせていただきましたのは、この泉質を味わっていただきたかったのもあるのです」
「ああ、最高です……、ご挨拶もせずにすみませんでした。先にお風呂をいただくなんて」
「とんでもないことですよ――すでにリイチ様は水無家の立場をご存じですか?」
「少しは……」
「ならばご理解ください。我々に年齢の差があるように、その立場には雲泥の差があるということを」
「はい……まあ……」
俺の態度をどう思ったのだろうか。
巌さんは、ニコリと凄みを混ぜた笑みを見せてきた。
「ま、とはいえここは水無家の領地でもあります。ほかには誰もおりませんし、私も気楽にお話をさせていただきましょう。良いですかな、リイチくん」
「はい……!」
ああよかった。
このままだったら、肩が凝ってしまって、何のためにここに来たのか分からなくなってしまう。
招待してもらって何様って感じだけれど、鬼炎家関連の雰囲気は正直、肩にくる。
しばし沈黙の中、温泉ならではの癒しを楽しんだ。
先に口を開いたのは、巌さんだった。
「リオはうまくやっていますか?」
「ええ、そうですね……色々ありますけど、助けてもらってます」
「それよかった。あの子も、小さいころは、やんちゃでねえ。とてもよく笑う子でしたよ」
「そうなんですか?」
いや、そうでいいのか……? 印象通りっていえば印象通りになるのかな。
初めて会ったときは無表情のエリートメイドって感じだったから、今のリオの方に違和感を感じていたのだが、あれがナチュラルモードなのだろうか。
「ええ。よく笑って、よく泣いて、一人娘ですから私もよく愛したつもりですがね――まあ、女の子というのはいつだって、父親から離れていくものですから、それも長くは続きませんでしたが」
「なるほど……?」
ジョークが原因ではないだろうか――と思ってしまったのだが、それはあらゆる意味で、俺の間違いだった。
「ある日を境に、リオは笑わなくなってしまいましてね」
「え?」
「それは水無家の立場では仕方のないことだったと、今でも私は考えている。でも、リオにとっては……年頃の女の子にとっては、そんなこと関係がなかったのですな。まあ、当たり前ですが。それから色々と手を尽くしましたよ」
「……、……」
俺は口をはさめなくなった。
いつの間にか始まっていた会話が、どうしたことかとても大事なことのように思えてきた。
「まるで昔話の一幕のように私は努力をしたつもりです。娘を笑わせたものに大金を渡してもいいくらいにね。最後は自分のジョークセンスを伸ばそうと努力しましたが……、いやはや笑いは難しい」
「あの、リオの笑わなくなった理由って……?」
聞いてもいいことなのだろうか。
だが聞かなければならないことだとも思った。
巌さんはサラリと言った。
「人が一人、亡くなったのです。その一人の命は、しかし、何人もの人生を変えてしまった」
思わず『亡くなったのはリオのお母さんですか?』と聞きそうになったが、それは違うだろう。
どうみても母親は生きていた。
では誰のことを話しているのだろうか。
俺の母親ではないだろう。時期が合わない。
「人の命は不思議です。神は人を同等に作ったと聞いたこともあるが、私にはそうは思えない。リオを見ていたらなおさらだ」
「よければ教えてください……リオが笑わなくなってしまった直接の原因というのは、一体……?」
「原因、ですか」
巌さんは、とても優しい色の瞳をこちらに向けた。
そこに敵意はなく、あるのは慈愛のようなものだけだった。
俺はその色を知っていた。
それは親だけが持つ、子への愛情の色だ。
「リオを笑わなくさせたのは、リイチ様。あなたの命――あなたの存在のせいです」
「……俺?」
「そして、リオが再び笑えるようになったのも、リイチ様、あなたのおかげです」
「あ、あの、それは、一体――」
「人生とは不思議なものだ。自分が水無家であることを呪ったこともある。だが今ではあなたが鬼炎家に認められることだけを、自分の使命としています。孫の顔が早くみたいのものです」
「え? 孫?」
巌さんは、にっこりと笑った。
しかし回答への拒絶を示すかのように湯から上がった。
「リイチ様。私たち水無家は貴方の命を全力をかけてお守りするでしょう。なぜならそれは、リオの笑顔のためであるからです――」
湯気の向こうに消えた背中は、それ以上を語ることはなかった。
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